映画『あんのこと』は実在した、ある女性の生きた姿をモデルにしている。

 幼いころより母親からDVを受け家計のために10代で売春を強いられたその女性は、客に勧められて覚醒剤の常習者になり、やがて逮捕された。本作で杏(あん)と呼ばれる少女だ。

 脚本も執筆した入江悠監督は、その女性について書かれた新聞記事を常に手にしていた。女性の“存在の証”となった、新聞記事である。

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入江悠監督 ©2023『あんのこと』製作委員会

「これまでは自分なりの作劇の方法で物語を構築してきました。でもこの作品には実際にあった出来事、実在の人がいる。その人に“これは映画だから”と僕の考えを代弁させてしまっていいのだろうか、そういう思いがありました。描くことの責任をこれほど感じたことは初めてです」

 杏を演じるのは、ドラマ『不適切にもほどがある!』で大きく注目された河合優実。河合さんは、本作への思いをこのような言葉で伝えている。

《この映画を作ること、杏のことを演じるということで、何ができるのか、何をすべきなのか、何がしたいのか。繰り返し問いながら、でも彼女と心の中でしっかりと手を繋いで、絶対に離さずに、毎朝、今日もよろしく、いってきますとお祈りして撮影に向かっていました。強く信じながら作った映画です》

 取調べの担当刑事(佐藤二朗)に紹介された薬物更生者が集う会。その会を見つめる週刊誌記者(稲垣吾郎)。初めて信じられる大人の存在が、杏を、触れたことのない手ざわりの未来へ少しずつ導いていた。――そのはずだった。

 実在の人物、実話をもとにした作品は数多ある。それなのに、監督、俳優ともに、これほど真摯な思いにさせたのはなぜなのか。

©2023『あんのこと』製作委員会

「その女性(ひと)は、どの街のどこかですれ違っていてもおかしくない人でした。それなのに僕はその記事に出会うまで、そういった世界への関心や想像することを閉ざしていたと思います。人と出会い生きる目標を手にした彼女の前に、コロナ禍がそのつながりを絶つように立ちはだかり、苦しめてしまった。コロナ禍で2人の友人を亡くした僕も同じでした。こんなに簡単に孤立し絶望に陥るのか、そう考えさせられたことは大きかった」

 入江監督は、杏の感情の動きを河合さんに委ねている。

「例えばゴミだらけの家で母親から虐待されれば、杏は家を飛び出す、そう演出しがちです。でも河合さんに気持ちを訊ねると、虐待は辛いけど母親を“守らなければいけない”という、逃げる・捨てるとは違う簡単ではない思いを閉じ込めて、肉体だけでなく心にも傷を負って芝居をしていた。杏と誠実に向き合う姿に、この作品を託そうと思いました」

いりえゆう/1979年、神奈川県生まれ、埼玉県育ち。2009年、自主制作映画『SR サイタマノラッパー』でゆうばり国際ファンタスティック映画祭オフシアター・コンペティション部門グランプリ、第50回日本映画監督協会新人賞など多数受賞。以後、製作した作品多数。

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映画『あんのこと』
6月7日(金)、全国公開
https://annokoto.jp/https://annokoto.jp/