映画版「昼顔」の結末があまりに残酷なものであったことで、私の周囲の斎藤工ファンがメソメソしている。しかしセンセーショナルな不倫ドラマは、やはりあのようにしか終わり得なかったのだろうし、私的には不倫がよくも悪くも人の関心を惹きつけ、多くの場合は拒絶反応を引き起こすということを再認識させられた。
不倫は希望を奪う
ここ2年ほどの過剰とも見える芸能人の不倫報道も、「昼顔」の悲劇的なラストも、単に近年よく見られるような行き過ぎた道徳心の引き起こした結果であると一蹴してしまうのは簡単だ。ただ私がそれほどシニカルになりきれないのは、もっと根本的で本能的な拒否感を感じるからだ。不倫が忌み嫌われるのは、ものすごく愛し合っているにせよそれなりに惰性の関係であるにしろ、夫婦関係の片割れである残された妻や夫から、世界で一人だけしか救えない状況になった時、必ずその一人には自分を選ぶであろうという希望を奪うからに他ならない。
少なくとも彼だけは自分を救ってくれるだろう、という辛うじてある希望を失うことは、人間にとって耐え難く心細いものである。「昼顔」は映画となってより一層、妻の不安と絶望を顕著に描いたが、私自身、独身のまま昨年母を亡くして今まで以上に強くそう感じている。
もちろん、自分の味方になってくれる人を増やし、守ってくれる人を増やすというのは誰にとっても人生の一側面であり、幸運な星の下に生まれ、またそこに甘んじずに努力すれば「社長のためになら自分が犠牲になってもいい」という部下を多く持つかもしれないし、「何よりも優先すべきはタクヤ」というファンを増やすかもしれないが、多くの凡人達にとってそれは結婚して生涯ともに歩もうと誓った相手たった一人の票しか期待できない。また、運が悪ければそれすらも手に入らないわけである。
なぜ「銀座ホステス裁判」は、オヤジ臭い判決になったのか
物議を醸したことで覚えている方もいるだろうが、2014年に判決が出た銀座ホステス枕営業裁判というものがある。裁判を起こしたのは女性で、夫と銀座のクラブのママが長年に渡って深い仲にあったことで精神的な苦痛を強いられたとしてクラブのママに慰謝料を求めたものだ。裁判官は不貞行為の事実の追及に重きを置かず、クラブホステスにとって「枕営業」というのは営業行為であるとしてその訴えを退けた。
確かに広義の不倫、つまり婚姻関係がある人がパートナー以外の人と肉体的あるいは精神的に強いつながりを持つ行為には二種類あるという見方はできる。「純愛型」の不倫と「愛人型」の不倫と言ってもいいし、「感情型」の不倫と「理性型」の不倫と言ってもいい。つまり、それこそ「昼顔」の上戸彩と斎藤工のようにお互いどうしようもなく惹かれあって、結婚している自分の事情など考えられないほど愛し合ってしまってチョメチョメるというのと、クラブホステスに入れ込んで通いつめ、チョメチョメまでありつくというのとではだいぶ印象が違う。
おそらく、古き良き時代の男、正しく言えば前近代的な思想の男は、「イエ」に対する責任愛と、遊女や芸妓を愛でる愛とは別物であり、妻と愛人は別物であるという認識だったからこそ、かの銀座ホステス裁判は革新的でありながらどこか懐古的な、オヤジ臭い判決という印象を帯びたのであろう。実際、決して多数ではないが成功した男たちが妻以外の女性を妾や愛人などと呼び、一定の責任をとって面倒をみた時代は確かにあった。