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不倫はなぜ罪深いのか――「貧困型不倫」と「富裕型不倫」

二つの不倫と、その傷

2017/07/24

「貧困型不倫」と「富裕型不倫」とは何か?

 ただ、現在の不倫を見ると「純愛型」「愛人型」などとうまく峻別するのは難しい。交際クラブに登録して女の子に幾らかのお小遣いをあげて食事やセックスに励む既婚男性は多いが、彼らはかつての妾の面倒を見るほどの気概も経済力もなく、また妻への愛と交際クラブの女の子への愛をうまく使い分けているようにも見えない。キャバクラに通いつめる客たちもまたしかりである。あるいは、愛の使い分けができていて、妻や家庭への愛はまた別の確固としたものとして保存されていたのだとしても、交際嬢やキャバ嬢への愛もまた、情けなく滑稽ですがるように真剣なものであったりする。

 結局、不倫の種類を決めているのは、既婚者ではない側の心持ちなのである。既婚男性と独身女性であれば、女性側が何目的であるか、というのがそれを決定しているに過ぎず、男性の側に真実か虚構か、純愛か遊びかの決定権はない。銀座ホステスと「昼顔」の上戸彩では女性側の心持ちはまるで違うが、恋い焦がれていた男性側の感情にそれほどの大差があるとは思えないのだ。先の裁判の判決が銀座側からすれば理にかなったものであり、妻側からすれば全く要領を得ないものであるのもそのせいだ。

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 既婚男性と肉体的あるいは精神的に深い関係にならんとする女性の方は簡単に分けてしまえば「貧困型」と「富裕型」に分類することができる。別に貧乏臭い格好をしているかどうかとか、収入がどれだけあるかに関わらず男性の金銭的な援助を目的とした関係を貧困型とした場合、枕営業をするキャバ嬢も愛人バンクに登録して月のお手当てをもらう愛人たちも、風俗嬢も大まかにはこちらに入る。別に、いわゆる玄人でなくとも、お小遣いや自分では買えないようなプレゼント、自分では入れないような店やホテルのスイートに目が眩んで港区あたりでおじさんたちを弄ぶ女子たちもまたそうだ。

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「昼顔」の上戸彩も、ベッキーも「富裕型不倫」

 対して、たまたま恋に落ちた相手が既婚者だったという女性、あるいは、特にお小遣いやプレゼント目的ではないが、スリルや切なさを求めて不倫をする女性たちも存在する。「昼顔」の上戸彩もそうだし、ベッキーだっておそらく相手のバンドマンからの金銭的援助など期待していなかったわけだから、こちらに入るであろう。それを「富裕型」とあえて私が呼ぶのは、既婚男性とうっかり恋に落ちがちな女性や不倫好きな女性というのは、圧倒的に社会的に自立した、いわばキャリアウーマンが多いからだ。

 おそらく、仕事で立身出世する気がない女性は相対的に結婚願望が強く、よくも悪くも既婚男性などはそもそも眼中にない場合が多い。逆に言えば別に本人としては既婚男性を選んでいるつもりがなくとも何故か既婚者と恋に落ちがち、という女性は、ある意味では純粋で、結婚して生活を安定させようだとか、あわよくば主婦になりたいといった計算なく男性を眼差している女である。そうした態度は総じて自分で生活を安定させることができる、人生に余裕がある人にしか成し得ないものであると言える。当然、自分のことをハナから圏外指定してくる女と、そういうことはあまり考えず分け隔てなく接してくる女であれば、男性が後者と恋に落ちる可能性も高い。

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不倫に類型はあっても、男に決定権はない

 何も、女性の職業や収入が「貧困型」と「富裕型」を決定づけるわけではなく、そこではあくまで傾向を読み取ることしかできない。それに「貧困型」として始まった不倫も純愛の色を帯びてくることだってある。ドラマ化もされた有吉佐和子「不信のとき」では、主人公の既婚男性はホステスと恋に落ちるが、そこに描かれるのはどちらかと言えば純愛型の愛憎劇である。ただ、それが分類の垣根を超えてくるかこないかというのも所詮、女性の方が思いの外本気で好きになってしまったか、どんなに甘い言葉を口で言っても結局は金の切れ目が縁の切れ目でしかないか、という女側の事情によるのであって、男に決定権はない。

 男に決定権がないというのはつまり、男の罪は等しく重いということであるし、妻の不快感や苦しみも大小の差がないということでもある。ただ、それは妻の不快感や苦しみが「一種類しかない」ということにはならない。