きょう3月13日、吉永小百合が80歳の誕生日を迎えた。わずか11歳で芸能の世界へ飛び込み、日本を代表する名優となった吉永。その半生を振り返る。(全3回の2回目/つづきを読む

若かりし頃の吉永小百合 ©文藝春秋

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小学校の卒業文集で「将来の夢は映画俳優」

 吉永小百合は1956年、11歳でラジオ東京(現・TBSラジオ)のドラマ『赤胴鈴之助』のオーディションを受けて翌年より出演した。その役どころは幕末の剣豪・千葉周作の娘で、奇しくも「さゆり」と名前が同じだった。好評のため放送は延び、約2年続く。収録で局に行くと、ときどき映画スターを見かけることがあり、憧れたという。

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幼い頃の吉永小百合 ©文藝春秋

 小学校の卒業文集では、将来の夢は映画俳優と書いた。その夢は早くも中学2年生にして実現する。松竹の『朝を呼ぶ口笛』(1959年)で映画デビューしたのだ。しかし、それからというものラジオやテレビを中心に仕事が忙しくなり、学校には満足に通えなくなる。彼女としては高校に進んだらちゃんと授業に出て、卒業した時点で改めて進路を決めたかったという(吉永小百合『私が愛した映画たち』立花珠樹取材・構成、集英社新書、2018年)。

高校生で映画賞を総なめに

 だが、吉永の家は、彼女の幼い頃に父親が事業で失敗してからというものずっと貧しかった。都立駒場高校の入試に合格した直後、母に自分の思いをそれとなく話すと、「高校へ毎日行きたいのはわかるけれど、学費ぐらいは稼いでくれないと……」と言われてしまう。ちょうどそのころ、親戚や父の知り合いのいる東映と日活の双方から専属の話が持ち上がっていた。当時、映画会社は各社が専属のスターを擁し、それを看板に映画を次々と制作してしのぎを削っていた。

 結局、親に促されるがまま、家から通えるとの理由で日活と専属契約を結ぶ。同時期に入った駒場高校の1年先輩には、のちに歌手となる加藤登紀子がおり、放送研究会で部長をしていた。校内放送で流れる加藤の声に惹かれて入部したものの、あまりに仕事が忙しくて授業さえ満足に出られず、勉強についていけないので1年の3学期で私立の高校に転校せざるをえなかった。

 吉永の初期の代表作である『キューポラのある街』は、高校2年生だった1961年、新人監督の浦山桐郎によって撮影された。翌年4月に公開されると、その演技が高く評価され、映画賞も数多く受賞し、彼女はスターの地位を確立する。同年には『いつでも夢を』で歌手の橋幸夫と共演、デュエットした同名の主題歌は日本レコード大賞を受賞した。