だが、両親には言い出せず、満足に声が出せないまま仕事を続けざるをえなかった。ようやく「もっと人間らしい生活をしないと、私はダメになる」と苦しみを打ち明けたのは、親ではなく、ある年上の男性だった。
彼は「一生懸命やれば、見る人はきっとその思いをわかってくれる。だからそんなに悲観しないでやりなさい」と言ってくれた。これに彼女は励まされ、その男性と結婚したいと勝手に思うようになったという(NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班・築山卓観『吉永小百合 私の生き方』講談社、2020年)。
15歳上のテレビプロデューサーと結婚
その男性とは、当時フジテレビのドラマプロデューサーだった岡田太郎である。吉永は19歳のとき、ドキュメンタリー番組の撮影でヨーロッパに行った際、ディレクターとして同行した岡田と出会い、その後、彼の演出するドラマに2作ほど出ていた。
1973年8月、28歳になっていた吉永は岡田と結婚する。彼女はのちに《あの時、結婚して姓を変えることが、私にとっての革命だったんですよ。それをしなければ、自分はもう、人間としてだめになるっていう感じだったんで。絶対に違う名前にならなければだめだと思って、強引に夫に頼んで結婚しました。そういう時は誰に何を言われても、頑固になってしまうんです》と顧みている(『婦人公論』1998年11月7日号)。
岡田は15歳上、しかも離婚経験があっただけに世間は大騒ぎとなった。披露宴こそホテルで大々的に行ったが、それに先立ち同日に挙げた結婚式は、岡田の同僚の千秋与四夫と歌手の畠山みどり夫妻の自宅で、岡田が同夫妻、吉永が信頼する先輩俳優・奈良岡朋子をそれぞれ立会人として、それ以外に出席者はいないというささやかなものとなった。
彼女の両親はこの結婚を認めず、式にも披露宴にも出席しなかった。もっとも、吉永の姉が後年明かしたところでは、両親はじつは披露宴に出たがっていたが、心臓の悪かった父がマスコミに囲まれることを慮って子供たちがやめさせた――というのが真相らしい。披露宴の費用もその後、父が払いにホテルまで行ったという(『週刊朝日』1989年9月29日号)。
「絶縁状態だなんてよく書かれましたが…」
吉永と両親との確執はその後もことあるごとにマスコミにとりあげられた。しかし、当の吉永は、《絶縁状態だなんてよく書かれましたが、そんなこと無理ですよ。だって、母が家に来ちゃったりするんですから(笑)。母の年代なら「嫁(か)しては夫に従え」ぐらい言ってもいいところを、まったく逆で、私の夫に向かって「私も娘に会いたいんだから」と言っちゃう人なんですよ》と、両親の死後、笑福亭鶴瓶との対談で語っている(『文藝春秋』2010年2月号)。
これに対し鶴瓶は「親子のことは、他人になんぼ説明したって、肝心のところは伝わりませんよね」と返しているが、まさにそのとおりではないか。吉永の場合は芸能人ゆえあれこれ勘ぐられてしまったものの、色々と事情を抱えながらも付き合いは相変わらず続いているという親子関係はけっして珍しいものではないはずだ。

