自由のない生活に覚えた葛藤
だが、スターとして脚光を浴びる一方で、あいかわらず自由のない生活に彼女は葛藤を覚えていた。転校先の高校でも結局、授業日数が足りず、卒業資格は得られなかった。「推選校友」という名目で出席した卒業式にはマスコミが押し寄せ、容赦なくカメラを向けた。その日、1963年3月19日の日記に、彼女はこんなふうに思いをぶつけている。
《一人の少女として卒業したかった。(中略)でも、それは遠い夢なのかもしれない。私の席のすぐ横の扉がひっきりなしに開く、そして多勢の人達と靴音とざわめき…。“仰げば尊し”と歌うその顔に、ライトが、フラッシュが光る、それでも私の神経はいらだってはいけないのだろうか。/いつも笑顔を見せなければ人気が落ちるのかしら。そんな人気だったら早く落ちてしまえばよい――。そんな思いが私の頭をかすめてゆく。母と口論した。こらえていた思いが涙になってほほを伝わってゆく》(吉永小百合『こころの日記』講談社、1969年)
早稲田大学に入学、卒論のテーマは…
せめてもの抵抗として吉永が選んだのは大学進学だった。ちょうど翌1964年には日活に労働組合ができ、組合の規定で撮影終了が原則として午後3時と決まったことも追い風となった。これなら夜間の大学に行けると、親や会社から反対されながらも大学入学資格検定試験を受け、2度目の挑戦で合格すると早稲田大学を受験、こちらもパスして第二文学部西洋史学専修に入学する。吉永小百合、20歳になったばかりの春だった。
授業へは多忙のなか頑張って出席を続けた。4年後には卒業論文を、一旦はあきらめかけながらも同級生の友人たちの応援もあり、アイスキュロス作のギリシャ悲劇『縛られたプロメテウス』をテーマに書き上げて提出した。その参考資料としてどうしても読みたい洋書があり、国内では手に入らないので、アメリカまでわざわざ手紙を書いて注文したという。そこまで力を入れた卒論を含め、きわめて優秀な成績で卒業した。
過労で声が出なくなったことも
じつは大学に入ったとき、教職を取ろうとひそかに考えていたが、それにはたくさん授業をとらねばならず、断念したという。俳優とは別の道を考えたのは、20代に入っても大人の表現力を持った俳優になかなかなれず、壁にぶつかっていたからだった。
もがきながらも、このときには父が彼女をマネジメントする事務所を設立しており、そのスタッフたちのためにも働かなくてはならなかった。20代も後半となった頃には映画業界は斜陽を迎え、代わってテレビドラマの仕事が増えていた。1972年には同時期にテレビの時代劇とホームドラマを掛け持ちし、撮影のため京都と東京を往復するうち、体調を崩して声が出なくなってしまう。当初は原因がわからなかったが、何人かの医者に診てもらって、過労とストレスによるものとわかった。

