94歳の夫を見送り「大往生だと思います」
父親が1989年に79歳で亡くなったときには、彼女は夫と葬儀に出席した。母親は2005年、90歳で死去したが、夫の岡田はその翌年、週刊誌の取材に対し、吉永の実家とはすでに和解したと明かしている(『週刊新潮』2006年2月23日号)。
岡田はフジサンケイグループの共同テレビの社長まで務めた一方、50代から大病を患い、吉永が看護してきたという。その事実を知ると、昨年彼が94歳で亡くなったとき、吉永の出したコメントにあった「大往生だと思います」という言葉に、彼女の感慨を思わずにはいられない。
岡田は結婚直前、対談した評論家の上坂冬子から「この際小百合ちゃんには女優をやめさせて、ご飯を炊かせてほしい」と言われたのを受け、《彼女がやめるというなら女優をやめるのはかまわないけど、やっぱり何かして働いている人が好きです。そうでないと、男と女はまともに愛し合えないんじゃないですか》と返している(『婦人公論』1973年5月号)。のろけにも聞こえるが、それは彼の本心であった。
夫の理解のおかげで手に入れた自由
実際、夫の理解のおかげで、吉永は自由を手に入れることができたと、ことあるごとに語っている。結婚して10ヵ月ほど休業し、料理を習うなど家のことに専念したのち、1974年6月にテレビドラマで復帰する。映画への復帰は同年に公開された山田洋次監督の『男はつらいよ』「寅次郎恋やつれ」で、その2年前の同シリーズ「柴又慕情」に続きマドンナ役での出演だった。
続く出演作は、『キューポラのある街』の浦山桐郎監督から熱烈なオファーを受けた『青春の門』(1975年)である。劇中に仲代達矢とのベッドシーンがあり、ことさらに注目された。だが、吉永は脚本を読んだときから役とのギャップを感じており、映画完成後にやはり自分の役ではなかったと再確認して落胆する。このころはどちらかといえばテレビの仕事に傾き、映画への情熱を失いかけていた。それを取り戻すきっかけとなったのが、映画『動乱』(1980年)で高倉健と共演したことだった。
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