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76年目の「終戦」

血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか

血で染まった甲板、母親の目の前で冷たい海に消えた子供たち…1700人もの命はなぜ奪われてしまったのか

「大東亜戦争の事件簿」三船殉難事件 #2

2021/08/15
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潜水艦の正体

 戦後の日本社会において、この事件が十分に語り継がれることはなかった。独立回復後も、日本政府の対応は緩慢だった。

 昭和37(1962)年、留萌市の海を見渡す丘の上に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、これは地元の人々や引揚団体の募金活動によって建てられたものであった。

 昭和42(1967)年、北海道は厚生省(当時)の依頼に基づき、三船の遭難者名簿を作成。しかし、名前や年齢といった基本的な項目に間違いが多く発見されるなど、杜撰(ずさん)な作業と言わざるをえない内容だった。

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 昭和49(1974)年には、厚生省が泰東丸の捜索を防衛庁に依頼。海上自衛隊の掃海艇が投入されたが、船体を発見することはできなかった。翌年以降も捜索は継続されたが、昭和54(1979)年を最後に厚生省はこの計画を断念した。

遺骨収集作業で撮影された海底に横たわる樺太引き揚げ船「泰東丸」の船尾付近(1984年8月、北海道小平町沖) ©共同通信社

 そのあとに独自の活動を続けたのは、樺太からの引揚者などから成る社団法人・全国樺太連盟であった。

 昭和56(1981)年には、地元の漁船が一隻の沈没船を発見。その後、全国樺太連盟が海中調査を進め、その沈没船が泰東丸である可能性が高いことを公表した。しかし、現在に至るまで、同船は海底から引き揚げられていない。

 総じて同事件に対する日本の国家としての姿勢には不満が残る。詳細に関する徹底調査や、船の引き揚げ作業、ソ連(ロシア)側への抗議など、いずれも不十分と言わざるをえない。歴代政府は、抗議どころか、潜水艦を「国籍不明」と位置付け、曖昧な姿勢をとり続けてきた。

 しかし、平成4(1992)年、秦郁彦拓殖大学教授(当時)の調査により、ソ連国防戦史研究所の回答を得た結果、三船を攻撃した潜水艦がソ連軍に属したものだったことが立証された。公式の文書によって、三船を攻撃したのはウラジオストクを拠点とするソ連海軍第一潜水艦隊所属の「L-12」ならびに「L-19」であると確認されたのである。

 ちなみに、潜水艦L-12の艦長であったコノネンコという人物は、ウラジオストクに帰還後、ソ連国内で「英雄」とされ、今に至っている。

(文中敬称略)

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