2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦直後、樺太(サハリン)から引き揚げる途中の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が旧ソ連軍の潜水艦に相次いで攻撃を受け、1700人余りが犠牲となった三船遭難事件も、その一つである。

 昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『大東亜戦争の事件簿』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

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 ソ連軍は北海道侵攻への野望をあからさまにし、南樺太や千島列島へと侵攻したが、その際、民間人の乗った引揚船に対する襲撃事件も引き起こしている。

 南樺太から北海道へ向かう三隻の引揚船がソ連軍の潜水艦に襲撃されたこの事件は、「三船殉難事件」と呼ばれる。

「三船」とは小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸という3隻を表している。この事件は後世に語り継ぐべき極めて重大な史実であるにもかかわらず、現在の知名度は残念ながら低い。

サハリン島 ©iStock.com

終戦後の南樺太を襲った「不条理な暴力」

 終戦後の南樺太では、女性や子供を含む多くの民間人が不条理な暴力の犠牲となった。

 南樺太ではすでに終戦前の8月13日には、南部の大泊港(おおどまりこう)から北海道への疎開船を出航させていた。しかし、戦争終結後もソ連軍による攻撃が続いたため、日本側は早急な引揚船の運航に迫られた。そんななか、樺太庁長官である大津敏男は、高齢者や女性、子供を優先して引揚げさせる決断を下した。

 大泊港は樺太各地から着の身着のままの状態で避難してきた人々で溢れ返った。引揚船は休む間もなく、北海道最北端の稚内との間を往復した。大泊と稚内は140キロほどの航路である。

約1500人を乗せて出港した引き揚げ船「小笠原丸」

 8月20日の午後11時45分頃、引揚船の1隻である小笠原丸が大泊港を出港。逓信省(ていしんしょう)の保有船である小笠原丸は、本来は海底ケーブルを敷設(ふせつ)するための船であった。小笠原丸は終戦の2ヶ月ほど前から、南樺太と北海道を結ぶ海底ケーブルの敷設のために運用されていたが、その船が急遽、引揚船として転用されることになったのである。

 総トン数1400トンほどの小笠原丸には、約1500人もの人々が乗船。まさに限界まで人を乗せた状態での出航であった。