船体の破片や木材などに摑(つか)まって、海上でなんとか生き長らえていた漂流者たちには、さらなる惨禍が待ち構えていた。
なんと潜水艦が海面に浮上し、重ねて攻撃を加えてきたのである。その黒々とした潜水艦は、漂流する人々を無差別に銃撃し始めたのであった。まさに海の上の虐殺だった。
当時は「国籍不明の潜水艦からの攻撃」とされたが、今ではその正体が「ソ連軍の潜水艦」であったことが判明している。
(戦争は終わったのでは?)
痛切な疑念や無念のなかで、多くの人々が命を散らした。
結果、この襲撃によって発生した犠牲者の数は、600人以上に及んだとされる。
これが「三船殉難事件」の始まりであった。
「小笠原丸」の倍以上が乗船していた「第二号新興丸」
続いて襲われたのが「第二号新興丸」である。
もともと貨物船だった第二号新興丸は、戦時中に海軍に徴用されて特設砲艦に改装されていた。引揚船の中では、最も有力な反撃能力を持つ大型の船だった。
21日の午前九時頃に大泊港を出港した第二号新興丸には、約3600人もの人々が乗船していた。小笠原丸の倍以上に及ぶ乗員乗客である。
第二号新興丸は当初、小笠原丸と同じく稚内に向かう予定だった。しかし、稚内における引揚者の受け入れ能力が限界に達したとの報告を受け、行き先は小樽に変更となった。
足を吹き飛ばされた遺体、60平方メートルの巨大な穴…午前5時の魚雷着弾
第二号新興丸が攻撃を受けたのは、小笠原丸の悲劇から約1時間後の午前5時13分頃のことであった。留萌の北西沖を航行していた第二号新興丸は、小笠原丸と同様、潜水艦からの雷撃に遭遇。一発の魚雷が二番船倉の右舷に命中した。
第二号新興丸には四番船倉まであったが、二番船倉にいた人々の多くが着弾時の爆発によって即死した。
二番船倉は死屍累々(ししるいるい)の惨状と化した。手足の吹き飛ばされた遺体も少なくなかった。
この時に空いた穴の大きさは、縦5メートル、横12メートルに達したとされる。この穴からの浸水により、第二号新興丸の船体は右側に傾いていった。