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76年目の「終戦」

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」

「助けて!」北の海に響いた子供の絶叫、千切れた手足はカマス袋に…「北海道にたどり着けなかった」人々を襲った「不条理な暴力」

「大東亜戦争の事件簿」三船殉難事件 #1

2021/08/15
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 そんな乗客たちの胸中には、家や土地を失って南樺太を離れる不安や心配が強かったものの、同時に、

(戦争は終わった。また一から頑張ろう)

 といった前向きな思いもあったという。

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 大泊港を出た小笠原丸は、稚内に寄港したうえで小樽まで行く予定だった。

 宗谷海峡を無事に通過した小笠原丸は、翌21日の午前11時頃、予定通り稚内港に入港。同港で半数余りの人々が下船した。

 稚内港は宗谷本線の稚内駅に隣接していたが、周辺は列車を待つ多くの引揚者ですでに溢れていた。

 この時に下船した人々の中に、のちに「昭和の大横綱」となる大鵬(本名・納谷幸喜(なやこうき))がいた。南樺太の敷香町(しすかちょう)出身の大鵬は当時まだ5歳だったが、母親とともに引揚者として小笠原丸に乗船していたのである。本当は小樽まで行く予定だったが、母親の船酔いと疲労が激しかったため、稚内で下船することにしたのであった。

 あとから考えれば、それが運命の分かれ目となった。

 同日午後4時過ぎ、小笠原丸は小樽を目指して再び出航。稚内港の桟橋を離れた。

午前4時の魚雷攻撃…凄まじい轟音と衝撃

 小笠原丸が阿鼻叫喚の惨劇に突き落とされたのは、翌22日の夜明け前にあたる午前4時20分頃のことである。

 留萌近辺の増毛(ましけ)沖の海上を航行していた小笠原丸は突然、凄まじい轟音と衝撃に見舞われた。それまで眠っていた多くの乗客たちは驚いて目を覚ましたが、自分たちの身に何が起きたのか、ほとんど理解できなかった。

 彼らを叩き起こした正体は、潜水艦からの魚雷攻撃だった。

 爆発によって一瞬で吹き飛ばされた人々もいた。船室から甲板に慌てて上がった船員たちは船の四方を見渡したが、周囲は白い朝霧に包まれていて何も見えなかった。

 やがて船体が傾き始めた。傾きが大きくなるにつれて、次から次へと海に人が落ちていく。8月とはいえ、冷たい北の海である。

「助けて!」

 母親を呼ぶ子供の声。我が子の名を叫ぶ母親の声。様々な悲鳴と絶叫が交錯した。

 海に投げ出されたり、自ら飛び込んだ人々は懸命に海面でもがいたが、体力のない老人や幼児から波に吞まれていった。小笠原丸は船首を空に向けながら沈んでいった。