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かろうじて無事だった機関室

 ただし、機関室はかろうじて無事だった。浸水時に重要となる排水機能も健在だった。第二号新興丸は航行の継続と、追撃の回避を懸命に試みた。

 しかしまもなく、2隻(3隻という説も有)の潜水艦が海面に浮上。第二号新興丸を追尾しながら、激しい銃撃を加えてきた。この機銃掃射により、甲板上にいた人々は次々と薙(な)ぎ倒された。

襲いかかったL-12、L-19と同時代のソ連潜水艦C56の魚雷発射室。ウラジオストクで潜水艦博物館として展示されている ©時事通信社

 留萌警察署保管の「死亡証明書下付願綴」という文書には、この時のとある一家の子供たちに関する情報として、次のように記されている。

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〈敵潜3隻が浮上、戦闘を開始したため、機銃弾が飛び交い、静子は首に重傷を負い、清吉は頭部に貫通銃創を負い、即死した〉

 このような攻撃に対し、単装砲や機銃を備えた特設砲艦である第二号新興丸は、船体を傾けつつも反撃を開始。砲撃するたび、船体が大きく揺れたという。

 この反撃の結果、1隻の潜水艦の正面に大きな水柱が上がった。ただし、この砲撃が潜水艦に着弾したのかは不明である。

「水柱が黒かったから当たったに違いない」

「海面に重油が流れ出していた」

 といった証言もあるが、断定は難しい。

 それでも、その直後にそれらの潜水艦が再び海中に潜航したのは事実であった。潜水艦の乗組員であるソ連軍の兵士たちは、民間船だと思って攻撃した船がにわかに反撃してきたので驚いたのかもしれない。こうして第二号新興丸の艦上からは、

「やった!」

「仇(かたき)をとった」

 といった声があがった。この反撃がなければ、より多くの犠牲者が発生していたであろう。

留萌管内小平町の慰霊之碑 ©時事通信社

収容されたちぎれた手足はカマス袋に…

 襲撃から4時間近くが経った午前9時頃、第二号新興丸は沈没寸前の状態で、近隣の留萌港に入港。南岸壁への着岸を果たした。

 港では、すぐに遺体や負傷者の収容作業が行われた。遺体は港内の吹き抜けの倉庫にひとまず安置され、その後に荼毘に付された。

 千切れた手足なども多く収容され、それらはカマス袋の中に無造作に詰められた。当時、18歳だった石川喜子は、行方不明となっていた父と姉の手がかりを探すため、カマス袋の中まで確認した。衣服や装身具の中に、見覚えのある物があるかもしれないと考えたためである。しかし、彼女の必死の捜索も徒労に終わった。

 この第二号新興丸では、約400名もの人々が犠牲になったとされる。

(文中敬称略:#2に続く