2021年の夏は、戦後76年を迎える。
明治維新を経て誕生し、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、第二次世界大戦に向かっていく当時の日本について一部を抜粋して引用する。
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盧溝橋事件から第二次上海事変へ
1937(昭和12)年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍部隊が夜間演習中、突然、銃声が鳴り響いた。点呼すると、一人の二等兵が見当たらない。日本軍部隊は中国軍(国民革命軍)の攻撃と断定して直ちに応戦した。
その後、兵士は見つかった。一時は緊張が高まったが、小規模な衝突に終わり、7月11日に現地で停戦協定が成立する。日中両政府は「不拡大」の方針を示し、事態は一旦収束に向かった。そんな期待は裏切られ、全面戦争に至る。ちなみに日本軍は駐留を北京議定書(1901)に基づくと主張していた。
蔣介石率いる中華民国国民政府はドイツと友好関係にあった。ドイツ人軍事顧問団を招き、最新の銃器や装甲車を買い揃えていた。ドイツにとって中国は最大の武器輸出先であると同時に、装甲や徹甲弾に欠かせない希少金属タングステンの重要な供給元だった。
上海と長江流域にはドイツ人によって訓練された精鋭8万人を含む30万人の中国軍部隊が配置されていた。中国軍は万全の態勢で日本の租界(上海)を包囲、8月13日に市街戦が始まった。北京を中心とする華北方面の北支戦線に続いて、上海戦線の火蓋が切って落とされた。第二次上海事変の始まりだ。
現場写真を元にした絵はがきの発行
日中両国はお互いに宣戦布告をしないまま戦争への道を突き進む。中国軍機は上海の日本海軍陸戦隊司令部の建物を狙って空襲を行うが、高射砲を避けようと、高い高度から爆弾を投下した。このため、国際共同租界にある建物を誤爆する。日本は、中国の「非道」を糾弾する口実を得た。空襲の惨状は宣伝工作に欠かせない素材となり、現場写真を元にした絵はがきが発行される。
シリーズ「昭和12年支那事変上海戦線」の中に、空襲の現場を捉えた一枚がある。説明に「8月14日支那飛行機より爆撃されたる南京路パレースホテルの惨状」と添える。街頭の車が燃え、爆風で瓦礫が飛散する。彩色されるが、元の写真は上海の英字新聞「ノースチャイナ・デイリー・ニュース(NORTH-CHINA DAILY NEWS)」(8月15日付一面)からの転載となる。
新聞に掲載された写真4枚のうち、右下の写真だ。新聞写真を拡大すると、右下の歩道に遺体が写り、手足が吹き飛ばされたように見える。欧米人か中国人かは判別できない。日本軍の検閲を経て、絵はがきとなった段階では遺体が灰色に塗り潰されている。中国軍の非道を訴える格好の場面だが、杓子定規に削除されたようだ。
記事はトップ扱いで「昨日、上海において現代の航空戦があらゆる恐怖と共に出現した。中国軍が飛行機を初めて使用し、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日に渡って中国軍機は上海上空から急襲を繰り返し、日本軍の高射砲によって迎撃された。だが、その日の大惨事は4時半に起こった。2発の爆弾が租界(国際共同租界)に、もう2発がフランス租界に投下され、およそ600人(ほとんどは中国人)が死亡し、11000人が負傷した」と記す。時刻は午後4時半頃、中国軍による誤爆だった。
続いて「2発の爆弾がパレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落ちた。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化し、道路には死体や瀕死の人で溢れている。さらに2発がエドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちた。現地のフランス警察は死者445人と負傷者828人を推定死傷者数と見ている」と報じた。