2021年の夏は、戦後76年を迎える。
明治維新を経て誕生し、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、第二次世界大戦に向かっていく当時の日本について一部を抜粋して引用する。
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迫り来る空襲と防空展
昭和初期には航空技術の向上によって長距離飛行が可能となった。全国各地で大規模な防空演習が実施される中、国民は都市空襲を「迫り来る危機」として実感させられた。そんな空襲に対する警告とも受け取れる絵はがき「我が国防は安全か」が第10師団(姫路)所属の「歩兵第39聯隊」から発行される。
1930年代に入ると、ソ連軍は極東地域において航空戦力の増強を図っていた。ここでの仮想敵国はソ連だ。ウラジオストク(浦塩)から1100キロ圏内に、姫路、大阪、東京をはじめ、朝鮮の京城、満洲の新京が収まり、長距離爆撃がいつでも可能であると図解する。極東地域に限れば、日本とソ連の戦力は戦車を除き、ほぼ互角だった。
敵はソ連だけではない。第二次上海事変は日中両軍が「報復」と称し、互いに空襲を繰り返した。中国軍は米国から航続距離の長い最新鋭機を導入し、高い空爆能力を有していた。日本の本土空襲は現実味を帯びつつあった。