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防空広報活動の最前線になったのは「百貨店」だった

 1937年10月1日に防空法が施行されると、軍が敵機の攻撃を防ぐ「軍防空」だけではなく、「陸海軍以外の者」、つまり市民が被害拡大を抑える「民防空」も加わった。本格的な防空対策が始まり、国と自治体は「民防空」の一環として、灯火管制、消防、防毒、避難、救護などの周知徹底を図る。そんな防空を巡る広報活動の最前線となった舞台が百貨店だった。

防空展(「ラップナウ・コレクション」より)

 防毒マスクをつけた3人の人物を赤と黒の色彩で描いたこの1枚は、百貨店からの「防空展」案内状だ。中部防衛司令部、大阪府、大阪市、日本赤十字社大阪支部が主催し、大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社が後援した。期間は1938年3月1日から6日まで、会場は大丸心斎橋店6階催場だった。

 宣伝文句には「実際に即した防空上の智識の普及を計り、その関心を深めて戴くため、燈火管制、防火、防毒、救護に関する実物、統計、写真、図表により興味深く展覧……」とある。

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 この防空展の開催から2カ月余を経て5月20日午前4時頃、日本の防空網を擦り抜けて、2機の国籍不明機が九州北部の上空に飛来した。反戦ビラが多数見つかり、後に中国軍の米国製爆撃機だと判明した。暗に都市空襲を警告している。

東京防空展覧会(「ラップナウ・コレクション」より)

「東京防空展覧会」案内状は後の東京大空襲を連想させるようだ。東部防衛司令部、警視庁、東京府、東京市が主催し、1939年3月19日から4月6日までの開催だ。東京上野の松坂屋を第一会場とし、高射砲と照空灯が上野公園入口に陳列されたほか、家庭防火の実験と小型ポンプの放水が上野公園の不忍池畔の産業会館前で実演された。

市民防空壕展(「ラップナウ・コレクション」より)

 防空展と並び、「市民防空壕展」もある。会場は大阪三越7階とし、日本建築協会が主催した。大阪師団司令部、大阪府、大阪市の後援も受けている。角材と板を用いた防空壕が描かれ、モンペ姿の女性が長椅子に座る。そこへワンピース姿の少女が入って来る。説明に「緊迫せる情勢に対する市民自らの研究資料として一町会、隣組、家庭用の理想的各種防空壕の実物、模型及びその図面、資材、工事費、築造工程等……」とある。

 だが、防空壕に避難しても火災が起これば、窒息死や熱死となる危険性があった。エレクトロン弾と呼ばれる焼夷弾はマグネシウムを主成分とし、猛烈な火花を発しながら数千度で燃焼した。水中でも燃え続けるため、燃え尽きるのを待つしかなかった。

 重慶爆撃に際して焼夷弾を使用した日本軍は、その特性を十分に認識していた。しかし、附近の可燃物に対する注水が有効であり、砂や濡れ筵が火花を抑える上で役立つと説明した。

 戦局が悪化するに連れて、逆に焼夷弾の炎はバケツリレーによって消火できるという誤った情報を国や軍は流布させていく。太平洋戦争を機に防空法が改正され、国民に応急消火義務を課し、都市からの退去を禁じた。こうして都市空襲において甚大な犠牲に繫がった。