2021年の夏は、戦後76年を迎える。
明治維新を経て誕生し、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、第二次世界大戦に向かっていく当時の日本について一部を抜粋して引用する。
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オリンピックと万博で観光客誘致を目指した戦前日本
昭和初期の日本は規模こそ小さいが、観光事業に力を入れていた。1929年には訪日外国人観光客が年間3万4755人、北米は第1位で8527人(24・5%)を記録した。当時は外国人観光客の購買力が格段と強い。アメリカ夫妻が体験した旅行は豪華客船の旅に始まり、飛行機、鉄道を駆使した日本観光の最新モデルプランだった。
だが、満洲事変を機に外国人観光客は減少に転じていた。特に北米からの落ち込みが激しく、1932年には4310人と半減したままで改善の兆しさえ見えなかった。人形外交を実施した頃は東京オリンピック(1940)の招致活動が展開中であり、少しでも米国の対日感情を緩和したかった。
オリンピックの東京開催が決定するのは1936年7月だ。これと並ぶ国家的な大イベントとして、日本万国博覧会の準備が進められていた。11月9日には紀元二千六百年記念奉祝事業としての開催が正式に決まった。主催団体となる日本万国博覧会協会は、東京府や東京市、東京商工会議所、神奈川県、横浜市、横浜商工会議所などで構成した。開催目的を「東西文化の融合に資し、世界産業の発達及び国際平和の増進に貢献する」とした。世界50カ国の参加が見込まれた。
日本万博は東京市と横浜市の2会場を予定した。東京会場では東京市京橋区晴海町及び深川区豊洲町などの敷地(約150万平方メートル)に28館の陳列館(パビリオン)、横浜会場では横浜市中区山下町及び山下公園一角の敷地(約10万平方メートル)に3館の陳列館の建設を計画し、1940年3月15日から8月31日までの間、約4500万人の入場者数を見込んだ。
日本万博の呼び物として「前例なき規模」の大サーカスや、世界旅行を疑似体験できる「世界風物モンタージュ」(合成写真による大型パネル展示)を挙げる。開催に先駆けて、富士山と金鵄を描いた絵はがきが公式ポスターと共通デザインだった。長崎県のデザイン画家中山文孝による作品だ。真っ赤な色彩であり、まさに日本の表象といえた。