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 ドッグレースでは、2頭の犬と共に日本とナチスの旗が描かれる。だが、空中ブランコは米国の興行だった。“死のサーカス”と銘打った「ファンチョン・マルコ・ショウ」の演目であり、オートバイの宙返りまで繰り広げられた。来場者にはドイツも米国も関係がない。日常を離れた娯楽を求め、面白い催しを見たかっただけだ。

日独の旗とドッグレース(「ラップナウ・コレクション」より)
米国のサーカスと日独防共協定記念館(「ラップナウ・コレクション」より)

同じ会場にナチスドイツと米国が混在した「不思議な空間」

 まだ日中戦争の前だ。戦時色を感じない。唯一のきな臭い展示が絵はがきで空中ブランコの背後に描かれる日独防共協定記念館だ。館内はヒトラーの塑像を据え、2000個の出品物を並べ、パノラマやジオラマを交えてナチスドイツの全貌を紹介した。「大毎フェア・ランド」は娯楽と消費を象徴する大イベントとなる。しかも同一会場にナチスドイツと米国が奇妙に混在した。後世から見れば、実に不思議な空間だった。

阪急西宮球場(「ラップナウ・コレクション」より)

 この大毎フェア・ランドを開催中の1937年5月1日、阪急西宮球場の開場式が挙行され、施工主の阪神急行電鉄は上空から撮影した記念絵はがきを発行する。種々の催しに対応し、見やすさと収容能力の増加を狙って2重層式を採用し、観覧席収容人員は内野と外野を合わせて5万5000人を誇った。ただし、名物とされた巨大な鉄傘は1943年10月28日に解体式を挙行した後、金属類回収令によって供出されてしまう。

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 阪急西宮球場は阪神電鉄の甲子園球場を強く意識した計画であり、写真からも分かるように周囲に水田が広がり、住宅も少なかった。社内では球場経営を危ぶむ声も多かったが、国防や軍事関係の催しに重宝された。球場建設に際して米国各地の球場設計図を取り寄せ、最終的にはリグレー・フィールド(シカゴ・カブスの本拠地球場)をモデルとした。本来、阪急西宮球場は日本の野球文化よりも本場のベースボール文化を強く意識した。いわば米国文化を象徴する場所でもあった。「親米」と「親独」の間で揺れ動いた西宮の一時期が垣間見える。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。