「延期」「中止」…夢と消えた万博とオリンピック
厳密にいえば、日本万博は博覧会国際事務局(本部パリ、BIE)が公認する「万国博覧会」ではなく、日仏間の交渉が続いていた。しかし、すでに日本政府は国家プロジェクトとして位置づけていた。日本万博が1940年8月31日に閉幕した後、東京オリンピックが9月21日に開幕する計画だった。
国際観光局は1940年の日本万博と東京オリンピックを絶好の機会とし、米国とヨーロッパから観光客の誘致を図った。パリに在外事務所(パリ市カプシーヌ街39番地)を置き、宣伝用の絵はがき「JAPON(日本)」を発行する。
表面にはフランス語で「CHEMINS DE FER DE L’ETAT JAPONAIS(日本国鉄道省)」と「DIRECTION GENERALE DU TOURISME(観光総局)」と記載される。「観光総局」とはフランス語の直訳だが、ここでは国際観光局を指す。絵の右下に「SATOMI 37」の文字がある。1937年のパリ万博(5月25日~11月25日)では積極的に「観光日本」を宣伝している。
日本地図を見ると、東京の位置に「EXPOSITION(博覧会)」の文字とオリンピック・マークが確認できる。描かれた都市や名所、物産を順に列記すると、北海道のスキー、青森のリンゴ、十和田湖の紅葉、日光の東照宮、横浜、鎌倉の大仏、富士山、名古屋城、奈良公園の鹿、大阪、京都、神戸、広島の厳島神社、松山城、博多人形、熊本の阿蘇山、長崎などが描かれる。これらは昭和初期の日本において観光地や観光資源として認知されていた。
さらに日本までの旅程について、カナダから横浜まで11日間、サンフランシスコから横浜まで14日間、パリから東京まで15日間、マルセイユから神戸まで32日間と挙げる。フランス人向けにもかかわらず、「世界地図の中の日本」ではなく、あくまでも「日本地図の中の日本」となっている。
数々の観光誘致策が功を奏し、1935年度には外国人観光客が4万人を超えた。英米両国からの訪日も含めて回復傾向にあった。しかし、観光産業は平和を前提とするビジネスだ。日中戦争は泥沼化し、その前提条件が崩れてしまう。
1938年7月15日の閣議によって日本万博は日中戦争終了までの「延期」、オリンピックは「返上」と決まった。国際色で彩るべき二大イベントだったが、国粋的な紀元二千六百年奉祝記念事業に位置づけられていた。日本中心の世界観が顕著になる過程を振り返れば「延期」と「返上」の結果は不可避だったのかもしれない。
まだ先だった「ぜいたくは敵だ」
ドイツの極東戦略は伝統的に「中国重視」を基本とした。再軍備を果たしたドイツは中華民国と1億ライヒスマルクの借款協定を結び(1936年4月8日)、軍事的・経済的な支援を行う代わり武器供与で得た利益をドイツ軍の近代化に充てた。
ただし、ドイツの親中政策がそのまま「反日」を意味したわけではない。ドイツから見れば資源も資金も乏しい日本に魅力が欠けていたに過ぎない。日本もまたドイツとの急接近は英米両国の警戒を招く。
ドイツとの一定距離を保ちつつ友好を図る姿勢が日本の外交政策だった。しかし、ソ連の脅威が日増しに高まっていた。「反共」の思惑で一致した日独両国は1936(昭和11)年11月25日、防共協定の調印に至った。
こうした国際情勢に受けて、大阪毎日新聞は「日独協定記念」を前面に出し、1937年3月25日から5月23日(5月25日の記載もあり)までの間、阪急西宮北口駅の南部経営地(後の阪急西宮球場一帯)を会場に「大毎フェア・ランド」を開催する。
3月24日付の大阪毎日新聞は「見逃せぬ趣向の数々」「待望・朗春の贈り物」との見出しで、「待望久しき本社主催の『大毎フェア・ランド』はいよいよあす25日花々しく開場する、朗春を目がけての催物は多いが何といっても『大毎フェア・ランド』こそ群を抜いた奇抜な趣向と色とりどりの催しで『天下に冠たり』といって差支えない」と宣伝する。
続いて3月25日付の大阪毎日は両面見開きで懸賞付き広告を掲載する。会場風景を描いた漫画から有名商品(12種)の名前を探し出すクイズであり、読者が応募して正解すれば、抽選の結果、豪華商品が当たった。
1等に「ナショナル受信機」、2等に「テイチクポータブル蓄音器」、3等に「クラブ化粧品・資生堂化粧品詰合函」を賞品に挙げる。「ぜいたくは敵だ」と言われる時期はもう少し後になってからだ。当時はまだ豊富な商品が街頭に溢れていた。
新聞広告に加えて、開催を告知する絵はがきが発行される。印刷は凸版印刷株式会社の製作だった。「大毎フェア・ランド」の会場には、サーカス場や競犬場、映画館、演芸館、遊園地、阪急食堂などが設けられた。会場中央に日章旗、後方にナチスドイツの旗が見える。