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76年目の「終戦」

漂う死体、忍び寄るサメ、辺り一面は真っ赤な血が…米軍の新型潜水艦に狙われた沖縄の子供たちの「悲劇」

「大東亜戦争の事件簿」対馬丸事件 #2

2021/08/13

 2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦の約1年前、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた疎開船が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没した「対馬丸事件」も、その一つである。犠牲者は約1500人のうち、約半数の800人ほどが幼い子供たちだった。

 昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『大東亜戦争の事件簿』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。

◆◆◆

夜中、ついに襲いかかった魚雷

 対馬丸の航海が一瞬のうちに崩壊したのは、22日の午後10時12分頃のことである。場所は悪石島の北西約10キロの辺りであった。

 海面に浮上したボーフィンは、対馬丸に向けて立て続けに魚雷を発射。対馬丸の見張り役がその雷跡に気づいたが、回避する時間はすでに残されていなかった。

 まず左舷前方で大きな爆発音が起こった。その後も何本もの魚雷が対馬丸を襲った。その時の様子を上原清はこう語る。

「私はその夜、先生の目を盗んで船倉ではなく甲板で寝ていました。すると突然、爆発音がして船が大きく揺れました。驚いて起き上がると、続けてボーン、ボーンと爆発音が響きました。ただし、海中での爆発だからでしょうか、鋭い炸裂音というよりも、ドラム缶を叩くような鈍い音でした」

対馬丸に襲いかかった潜水艦「ボーフィン」 ©getty

 船団の中で被弾したのは対馬丸だけだった。潜水艦の攻撃に気づいたほかの船は、この海域から全速力で脱出した。護衛艦も対馬丸の救援には回らなかった。

 対馬丸が学童疎開船として使われていることを知らなかったのはボーフィンの乗組員だけでなく、じつは護衛艦に乗っていた日本軍兵士の大半も同様であった。彼らは対馬丸を通常の貨物船だと思っていたのである。護衛艦の兵士たちは戦後になって「対馬丸事件」の全容を知り、悔しさと罪悪感に苛(さいな)まれることになる。

「海水がものすごい勢いで流れこんでいました」

 対馬丸の船内では、護衛艦の乗組員が想像もしないような光景が繰り広げられていた。

 船はみるみるうちに沈み出した。船体に空いた穴から、大量の海水が一挙に流入してくる。対馬丸の船員だった中島高男は、その時の光景をこう回想する。

〈海水がものすごい勢いで流れこんでいました。悲鳴やわめき声など、なんとも表現できない大きな声が、いや音でしょうか、暗い船底からわき上がっていました。闇の中をおおぜいの人々が、もだえ、おぼれ、苦しんでいるようすがかすかに見えました。おそろしい光景でした。(略)その大半は子どもたちでした。逆立ちの状態で、足を水面に出している者もいます。体をはなれたくつや帽子、服なども、人にまじって渦まいています。しかも、水の勢いは強まる一方です〉(『満天の星』〔対馬丸事件取材班著 文芸社刊〕)