2021年夏に戦後76年を迎える日本。戦争中には、忘れてはならない数々の悲劇があった。終戦の約1年前、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた疎開船が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没した「対馬丸事件」も、その一つである。犠牲者は約1500人のうち、約半数の800人ほどが幼い子供たちだった。
昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の『大東亜戦争の事件簿』(育鵬社)より、一部を抜粋して引用する。
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疎開中の子供たちを襲った悲劇
大東亜戦争中、米軍は日本の民間人が乗った疎開船をも攻撃の対象とした。疎開船を含む民間船舶への攻撃は国際法で禁じられていたが、米軍は「無差別攻撃」に手を染めた。
「対馬丸事件」もその一つだが、この事件が特殊なのは、乗っていた疎開民の大半が子供たちだったことである。
昭和19(1944)年7月7日、マリアナ諸島のサイパン島が陥落。多くの民間人が断崖から飛び降りて自決するという「バンザイ・クリフ」のような惨劇まで起きた。
重要な防衛線を突破された日本側が、次に懸念したのが沖縄だった。日本政府は沖縄県の女性や子供、老人に対し、県外への疎開を促すことにした。7月中に約8万人を日本本土へ、約2万人を台湾へ疎開させる計画を立てたのである。
こうして始まった疎開だったが、沖縄周辺では制海権も制空権も米軍に奪われつつあり、計画は思うように進まなかった。
疎開は強制ではなく任意であったが、希望者はなかなか集まらなかった。とりわけ子供たちを対象とした「学童疎開」は、親子が離れ離れになるのを嫌がる家庭が少なくなかった。そこで学校の教師が各家庭を訪問して、疎開を勧めるようなことも行われた。
こうして、当初の予定より遅れながらも、8月14日にようやく学童疎開の第一陣が那覇港を出発した。
「対馬丸」と名付けられた疎開船の出航は、8月21日と決まった。