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「1人で死ね!」玉音放送を聴いたにもかかわらず特攻機に乗り込んだ司令長官…見送る兵士たちの“悲痛すぎる叫び”

『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #2

2021/08/10
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 重大なミスが起きたとき、責任の所在を明らかにし、原因を解明することがミスの再発防止につながる。しかし、日本帝国海軍上層部においてはこの“当たり前”が機能していなかった。そう語るのは、日本海軍史研究家で大和ミュージアム館長も務める戸高一成氏だ。

 ここでは同氏の著書、『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』(角川新書)より一部を抜粋。日米両軍の体質の違いから太平洋戦争末期を振り返る。(全2回の2回目/前編を読む)

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8月15日の特攻命令

 作戦の決行を控えた昭和20(1945)年8月15日、終戦によりすべては終わったはずであった。しかし第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将はこの日、指揮下の残存航空機すべてに対し、関東沖の米機動部隊に対する特攻を命じた。この日、木更津から出撃した神風特別攻撃隊第七御盾隊第四次流星隊の「流星」艦爆2機のうち1機を操縦していた小瀬本國雄飛行兵曹長によれば、寺岡長官は、「攻撃目標は、房総沖の敵機動部隊である。諸氏の必中を祈る」と訓示し、「君たちだけを死なせはしない、私も必ず後から行く」と明言した。

 小瀬本ら2機の「流星」艦爆が800キロ爆弾を抱いて発進したのは午前10時50分、終戦の1時間10分前であった。このことを小瀬本ら特攻隊員は知らなかった。

 また寺岡長官は、指揮下の全飛行機に対し、15日の午前中に特攻することを命じており、護衛の零戦にも、戻ってきたら爆装して再度突っ込むよう命じていた。実際、15日の午後に関東沖の敵機動部隊攻撃に向かって、撃墜された機もある。

終戦30分前の特攻出撃

 小瀬本の流星艦爆は離陸後、両脚が完全に納まらない故障でやむなく引き返したのだが、代わりの機で出撃しようと着陸すると、そこでは間もなく終戦の玉音放送が流れた。

 茨城県の百里基地ではやや早く、10時15分から神風特別攻撃隊第四御盾隊の「彗星」艦爆12機が発進を始めていた。すでに大編隊での進撃はなく、数機ずつのさみだれ式進撃であったために、最後の1機が飛び立ったのは、午前11時30分ころ、終戦のわずか30分前であった。

 三重の鈴鹿基地では、戦闘301飛行隊に出撃命令が出ていた。基地にはちょうど報道班が来ていて、最後の出撃を撮影している。白浜芳次郎飛曹長が愛機に向かうと、零戦の横に250キロ爆弾が置いてあった。まず制空隊として出撃し、特攻隊の進撃を護衛した後に引き返して、今度は自分が爆装で突入するのである。エンジンを回し、発進の合図を待ったが、なかなか命令がない。ついに正午過ぎ、発進中止が決まった。白浜飛曹長は、初めて終戦を知ったのであった。こうして、発進が遅れて正午を過ぎた者は、茫然と飛び去った僚機の行方を思った。戦争は終わったというが、飛んで行った彼等は今や敵艦隊に突入しようとしているのである。

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