今年1月、90歳で亡くなられた半藤一利さんは、昭和史研究の第一人者として、『日本のいちばん長い日』や『ノモンハンの夏』などの著作を残しました。「歴史探偵」として、昭和史や太平洋戦争など、今につながる歴史について教えてくれた半藤さん。遺作となった『歴史探偵 忘れ残りの記』より、一部を紹介します。(全2回の2回目。前編を読む)
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神風いろいろ
さきごろ大岡昇平『レイテ戦記』を再読する機会があった。大岡さんはこの大冊のなかで、神風特別攻撃隊の体当り攻撃にたいしてほとんど手放しで讃美の切ない心情を吐露し、自己の死を賭した特攻隊員の意識と行動に最高の道義を認めている。それは全篇にみなぎる国家体制や、なかんずく軍部にたいする仮借なき批判の筆とは、あまりにもそぐわないほどの烈(はげ)しい感情の移入であり、心の傾斜であることに驚かされた。
そのことについてはほかに書いたから略するとして、それを契機としてわたくしには「神風」にまつわるもろもろのことが想いだされて来て、ついでにこの風について歴史探偵を自称するものとしてちょっと調べてみたくなった。ここにはそれについて書く。
神風となれば、昭和一ケタ生まれ以上にはただちに元寇(げんこう)を想起する人も多いであろう。
蒙古襲来での神風
文永の役(文永11年、1274)で侵攻ならずに引き揚げたモンゴル軍は、弘安4年(1281)ふたたび来攻した。実に1000隻からなる大艦隊に5万の兵、さらに3500の船に必要な糧食や兵馬と兵10万をつみ、これらが合体した軍勢は7月初めに壱岐の沖に集結、九州博多湾に向かって来たのである。
日本軍(武士団)は上陸軍を海岸線に迎え撃ち、果敢に応戦した。戦いぶりはアッパレそのもので、上陸を許さなかった。流血を6週間余もつづけたのち、やむなく戦法を変えようとモンゴル軍は艦隊を一つに結集させた。船を互いに鎖と板でつなぎ、離れないようにするのを忘れなかった。そこに大風が襲ったのである。
この記事は、日本史、元史や、マルコ=ポーロの旅行記にもあって、否定できない事実になっている。新暦に直せば8月下旬にもなろうから、季節のみから考えてもこの大風は台風によるものと思われる。