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「神風をよぶために十死零生の特攻が考えだされ、作戦命令として強制化…」 半藤一利が語る、やりきれない“狂気”の時代

『歴史探偵 忘れ残りの記』より#2

2021/07/24

source : 文春新書

genre : ライフ, 歴史, 読書, ライフスタイル, 社会

note

 実戦記録『八幡愚童記(はちまんぐどうき) 』にはこう記されている。

「去七月晦日の夜半より乾(いぬい)の風おびただしく吹きいでて、閏(うるう)七月朔日は賊船ことごとく漂蕩して海に沈みぬ」

 投錨した船は大風に直撃され、互いにぶつかり合い、岩に激突、綱を切り帆柱を折った。転覆した船の残骸はあまりに数多かったため、翌朝はバラバラになった船体、外板、折れた柱の上を歩いて何百メートルもの沖まで行くことができたという。沈んだ船4000、溺れ死んだもの13万人。

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 この風は、記録にあるように、博多湾の乾風つまり北西風であった。今日の気象学的にいえば、九州南部から近畿地方へと進んだ台風の目、の外側の風であろうと推測されている。裏書きするように、この風はのちに京都も襲っており、「終夜風雨はなはだし」と当時の記録が残っている。

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 ついでに書くと、北陸一帯から新潟へかけて真宗(しんしゅう)王国をつくったのには台風と関係があるような気がしてならない。太平洋から近畿に上陸した台風は、いまでも北上して北陸を襲い、進路を北東に変じて新潟から津軽へ走っていくことが多い。屋根に瓦がのる前の、軽い板葺きの家に住む民衆は枕を高くして眠れなかった。法然(ほうねん)から親鸞(しんらん)へとつたわった他力本願の教えは、台風で屋根をふっとばされ、諸行無常(しょぎょうむじょう)を感じた民衆の心をたしかにとらえたのである。人びとの避難所となった真宗の寺がやたらに大きく重い屋根をのっけているのは、そのためではあるまいか。

 それはともかく、元寇の「神風」であるが、当時はそうよんで大喜びしたわけではなかったようである。なるほど、日本国にたいする神のご加護とする考えはあったらしいが、「神風」とよぶいい方はなかった。直後の閏7月17日の後宇多(ごうだ)天皇の宣旨(せんじ) には、

「今月朔日暴風上波、是則神鑒之応護也、賊船定漂没歟……」

 と、風を「暴風」ととらえている。南北朝時代の北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』も、「大風」としているだけ。万世一系の皇統の正しさを訴えたこの書にして然しかりとなると、いつからこの暴風が「神風」と変じたのか、興味ある主題といえる。