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イツキノミヤの神風

 ところで、日本史上に重要な役割をはたしている風、それもはっきりと「神風」と書かれている風がほかにもう一つあった。『万葉集』巻2・199の柿本人麻呂の長歌で、それには、

「……行く鳥の あらそふ間(はし)に 渡会(わたらい)の 斎(いつき)の宮ゆ 神風に い吹きまどはし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常(とこ)やみに 覆ひたまひて……」

 とある。弘文(こうぶん)天皇(大友皇子)と大海人皇子(おおあまのおうじ、天武天皇)との間で戦われた壬申(じんしん)の乱の際の、高市皇子(たけちのおうじ)の武勇を人麻呂がほめたたえているところである。大海人皇子は戦略上から伊勢の桑名より美濃に入って東国の軍勢を集め、高市皇子を総指揮官にする。高市皇子は全軍を率い、不破(ふわ)の関で近江より進攻して来る弘文天皇軍を迎え撃つ。このときの戦闘を人麻呂が高らかに歌いあげているわけなのであるが、この長歌によって明らかに戦場には烈しい風が吹いていることがわかる。

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 その風は、イツキノミヤの神風。ということは伊勢から来る神助の風であるから、多分に南々東の大風であったにちがいない。しかも厚い雲が全天を蔽(おお)って真っ暗になっている天候である。そして季節は7月である。これはもうちょっとした低気圧の移動などではなく、明らかにこれまた台風であり、近畿地方を南北に横断して日本海へぬけていったものとみたい。

 とすれば、これは高市皇子の軍にとっては追風となる。当時の戦いは主要武器が弓矢であるから、追手の風なら射るにも火を放つにも断然有利。また剣をぶつけ合う接近戦となっても、烈風を背にすることは風に向かって進むより数倍も有利に軍を展開できる。

 壬申の乱における大海人皇子の勝利は、不破の関での勝ち戦さによって決した。勝因は伊勢の方より吹いて来た台風を自分の味方にしたことによる。まさに神風であったのである。それを証するかのように、もともとは日の神を祀(まつ)る一地方の神であった伊勢神宮は、壬申の乱からのち、突然に天皇家の祖霊をおまつりする聖地へと昇格していった。

 そしてやがては、『万葉集』の、たとえば巻2・162の持統(じとう)天皇の長歌の一部に、

「……神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 塩気のみ 香(かお)れる国に……」

 とあるように(ほかにもあるが)、明らかに伊勢という地名にたいする枕ことばとして用いられるようになっていった。