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76年目の「終戦」

「1人で死ね!」玉音放送を聴いたにもかかわらず特攻機に乗り込んだ司令長官…見送る兵士たちの“悲痛すぎる叫び”

『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #2

2021/08/10
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 この日8月15日、米機動部隊のハルゼー大将は房総沖の戦艦「ミズーリ」艦上にいた。トルーマン大統領からの終戦の知らせを受けたハルゼーは、午前11時に戦闘旗を降ろし、艦隊に勝利を伝えた。ところが、レーダーは相変わらず日本の体当たり機が飛んで来るのを発見していた。正午を挟んで、日本中が天皇陛下の玉音放送を聴いているころ、何も知らない特攻機は、勝利の歓声をあげている米艦隊の周りで次々に撃墜されていたのである。

 終戦前日の8月14日、ポツダム宣言受諾は決定されていたので、大本営は大海令47号をもって、「何分の令あるまで対米英蘇支積極進攻作戦は之を見合わすべし」との命令を海軍総隊、及び連合艦隊に出していたのである。

特攻指揮官たちの最期

 終戦の日の昭和20(1945)年8月15日、大分飛行場に司令部を置いていた宇垣纏第五航空艦隊司令長官は、正午のラジオで玉音放送を聴き、放送終了後、特攻機に乗り込み沖縄に突入した。このとき部下は可動機である「彗星」爆撃機を11機すべて用意し、22名が長官に従って発進した。

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 出撃した11機のうち、3機は途中不時着し、4機が突入電を発信し、残り4機は連絡のないまま消息を絶った。

 宇垣長官の突入は、残された者に複雑な感情を残した。特攻を送る時、常に「お前たちだけは死なせない。最後の1機で私も後からゆく」と訓示していた言葉を守ったことは、さすがといわせるものがあったが、無意味な道連れを作ったことには非難があった。長官の出撃を見送った中にさえ、「1人で死ね!」と叫ぶ声があった。海軍総隊の小沢長官も、あからさまに不快な表情でこの自爆飛行を非難した。

 こうして特攻攻撃の最大の実施部隊であった第五航空艦隊に終戦が訪れたのであった。

 その翌日には大西瀧治郎中将(当時、軍令部次長)が割腹自決した。彼の遺書には次のように記されていた。

「特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり、深謝す。最後の勝利を信じつつ、肉弾として散花せり。然れ共、其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

 次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り、自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも、日本人たるの矜持を失う勿れ。諸士は国の宝なり、平時に処し猶お克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ」と。

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