太平洋戦争末期の日本は、資源も半ば尽きかけ、追い詰められた戦局を打開する合理的な作戦を立てられずにいた。アメリカに勝つために日本軍が導き出した作戦は、人命と引き換えに敵艦を撃沈せしめる「特別攻撃」。すなわち自爆作戦しかなかった。
無防備ともいえる作戦が立てられるまで、いったいどのような経緯があったのか。ここでは、大和ミュージアム館長・日本海軍史研究家の戸高一成氏による『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』(角川新書)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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「合理的作戦」の破綻のあと
レイテ沖海戦で敗北した日本海軍は、残存艦艇の修理、整備に入った。しかし、再び水上艦艇による決戦が行われるとは考えられない状況であった。大きな修理を必要とする艦艇は最小限の修理のみを施して、残るすべての力は特攻兵器の生産に充てられることになった。
やや話はさかのぼるが、マリアナの攻防で艦隊を失った海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力の差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。
当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いことに気づかず、単に対空機銃と高角砲が多い、つまり物量の差があるといった程度の認識しかなかった。
何もない日本海軍に残された道
この、米軍イコール物量という図式は、日本の軍人の頭の中に深く染み込んだ観念で、これはワシントン条約で日本の海軍が対米6割に抑えられた時からの長い歴史を持った観念であった。これらの物量に対抗するには、米艦隊を上回る戦力を集中して対抗すべきであったが、日本海軍にはすでにその力はなく、力を蓄積するだけの資源も、時間もなかったのである。
では、何もない日本海軍に残された道は何であったか。それは天佑神助を当てにすることと、大和魂を持ち出すことだけだったのである。
合理的な作戦がすべて破綻したとき、残っていた作戦が非合理であったことは、あるいは自然なことだったのかもしれない。
昭和18(1943)年秋には、軍令部の中で源田実参謀が黒島亀人参謀と、次の決戦では体当たり部隊を編成することを話し合っていた。昭和19(1944)年1月に、連合艦隊から軍令部の参謀に転属となった土肥一夫中佐は、黒島参謀が「次の作戦では体当たりをやるんだ……」とたびたび言うのを聞いて、「何、変なことを言っているんだろう」と奇異なものを感じていた。