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なぜ若者たちは特攻隊入りを“熱望”したのか…「いずれ死ぬ身なのだから」日本海軍が“非合理”な自爆攻撃を決行してしまったワケ

『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #1

2021/08/10
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山本五十六の秘蔵っ子、黒島参謀

 黒島参謀は戦死した山本五十六司令長官の秘蔵っ子というべき存在で、ハワイ作戦の推進者ということもあり、連合艦隊では一目置かれてはいたが、奇矯な性格が規律を乱すことが多く、何度か更迭を求められ、後任者として兵学校48期の宮崎俊男が予定されていたが、山本長官はついにこれを許さなかった。しかし、山本長官戦死後まもなく、軍令部参謀として連合艦隊を去ったのである。黒島参謀は軍令部でも奇人ぶりを発揮して、堅実な作戦を嫌い、潜水艦に攻撃機を搭載した海底空母を使った作戦を立てたりするのを好んでいた。この黒島参謀のいる軍令部に、ハワイ作戦時の第一航空艦隊の航空参謀として、ハワイ作戦実施の立て役者であった源田中佐が参謀として着任して来たのである。

 源田参謀は、ミッドウェー作戦の失敗を、「敵空母に向かう攻撃隊に護衛戦闘機をつけようとして戦機を失い、先制攻撃を受けて敗北した」と分析し、搭乗員の生命を案じたのが悪かった、と結論した人物である。

体当たり攻撃実行のための抜け道

 つまり、以後の作戦は、搭乗員の生命は作戦の遂行のためにはあえて考慮しない、というのが方針であり、この2人が軍令部で顔を合わせたときに、体当たり攻撃の計画が持ち出されたであろうことは、いわば自然なことでさえあった。だが、いくら黒島参謀と源田参謀でも、このような兵器、作戦を公式に持ち出すことはできない。言葉としては「命をくれ、死んでくれ」とは言えても、本当に死ぬしかない任務を命ずることはできないのである。ただ、これにも抜け道はある。体当たりする兵士自身が志願すれば、これを認めることはできないことではない。いや、これこそ大和魂の発露として求められるものであったのかもしれない。

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 源田参謀、黒島参謀には、この志願者についての当てがあった。ミッドウェー敗戦以降、一方的に押されて、なんら効果的な反撃のできない状況に、一部の青年士官の中からは、現実に体当たり攻撃を考える者が出始めていたのである。