戦局挽回を期待した人間魚雷
その一部は、早くも昭和18(1943)年の冬には軍令部に対して、「今こそ身を捨てて、国に報ずべき秋だ。それには自ら人間魚雷に搭乗し、一人一艦ずつ体当たりで撃沈する以外に、戦局挽回の道はない」との意見書を出していたのである。これらの意見書は竹間忠三大尉、近江誠中尉などの他、ハワイ攻撃で九軍神を出した特殊潜航艇「甲標的」の艇長であった黒木博司中尉、仁科関夫少尉などが、やはりこのような体当たりの人間魚雷の構想を軍務局に提出していた。
黒木中尉、仁科少尉がこの企画案を携えて軍務局を訪れたのは昭和18(1943)年も押しつまった12月28日であった。2人は、この案を水中兵器戦備担当の吉松田守中佐に直訴したのである。
「今こそ我々若人が、身を捨てて国を守るべき時であります。願わくば、この人間魚雷を速やかに実現して、我々に与えて下さい。我々は、真っ先にそれに搭乗して、一人一艦、敵艦に体当たり撃沈して、この難局打開に努めます。どうか実現にお力添えをお願い致します」
吉松中佐に面会した2人は人間魚雷製作を求め、呉海軍工廠魚雷実験部の協力を得てまとめた図面を広げたのである。吉松中佐が軍務局一課長の山本善雄大佐の判断を仰いだところ、大佐は両名を呼び、時期を待つように諭して下がらせたという。
脱出装置を設計から外された「回天」
しかし、戦局はたちまち日本海軍を追いつめ、1944(昭和19)年2月5日、米軍はマーシャル諸島のクェゼリン環礁を占領するにいたる。次に来るのはマリアナ諸島の攻防である。そしてマリアナが敗れれば、日本本土は直接米軍の攻撃にさらされることは明らかだ。ことの重大さに、山本大佐はついに決心をして、2月26日、極秘裏に黒木中尉、仁科少尉考案による人間魚雷の試作を命ずることになった。
当初、この兵器には脱出装置が求められたが、現実にはそのようなことは不可能であり、脱出装置は設計から外されて、7月初旬には3基の試作魚雷が完成した。約1か月の試験の後に、人間魚雷は8月1日に制式兵器として採用され、「回天一型」と命名された。
回天の製作に先立って、7月1日には回天搭乗員を訓練するため第一特別基地隊が呉に設置され、訓練も始められていた。レイテ戦で「やむを得ず」特攻が行われる8か月も前に、特攻兵器「回天」は試作を始められ、4か月も前に特攻隊員の訓練が始まっていたのである。海軍は、来るべき決戦においては、体当たり攻撃を実施することを決定していたのである。