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なぜ若者たちは特攻隊入りを“熱望”したのか…「いずれ死ぬ身なのだから」日本海軍が“非合理”な自爆攻撃を決行してしまったワケ

『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #1

2021/08/10

「特攻兵器」生産と「必死隊」募集

 特攻準備はこれだけではなかった。マリアナを失った直後、第341航空隊司令岡村基春大佐は、軍令部の源田中佐、軍需省航空兵器総局総務局長の大西瀧治郎中将などに体当たり攻撃を説いて回っていた。もとより体当たりを考えていた源田中佐に異存はない。大西中将も、米国に比して圧倒的に弱体な航空機生産の責任者として、もはや通常の手段では戦局を挽回することはできないと考えていたところであり、この岡村大佐の進言には心を動かされるところが大きかった。大西中将はただちに7月19日の読売新聞にこの考えを発表し、国民に対して、来るべき特攻作戦の伏線を張ったのであった。

「我に飛行機という武器があり、体当たりの覚悟さえできていれば、敵の機動部隊を恐れることも要らないし、……敵空母を発見したら空母を、B-29を見つけたらB-29をことごとく体当たりで葬り去ればよいのだ。……生もなく死もなく敵に体当たりを喰らわせる兵こそ、神兵の名に値するのだ」

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 大西中将の決意は、固まっていた。

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 ちょうどこのころ、第1081航空隊(輸送機部隊)付の大田正一少尉は、爆弾にロケットと翼を付けた体当たりグライダーを考案し、ツテをたどって航空本部にプランを提出していた。これは軍令部にも通知され、体当たり実施派の源田参謀を中心に具体化が進められた。そして、早くも昭和19(1944)年8月16日には100機の試作が命ぜられた。完成時期は10月下旬、予想される次の決戦には新兵器として登場するはずであった。

 この「爆弾グライダー」に乗る搭乗員の募集も各地で始められた。8月下旬、千葉の館山では搭乗員集合がかけられた。集まった搭乗員を前に、第252航空隊の舟木忠夫司令は言った。

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