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76年目の「終戦」

「本土に行ったら雪が見られる」はしゃぐ沖縄の子供800人が犠牲…疎開船を襲った“真珠湾の復讐鬼”とは?

「本土に行ったら雪が見られる」はしゃぐ沖縄の子供800人が犠牲…疎開船を襲った“真珠湾の復讐鬼”とは?

「大東亜戦争の事件簿」対馬丸事件 #1

2021/08/13
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 子供たちはいくつかの班に分けられていた。班長が班員の食事を取りに行ったり、点呼などの役目を果たした。

 引率の教員からは、救命胴衣の着方などを教わった。学校ごとに緊急時の退避訓練も行われた。また、

「海に物を捨てるな」

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 と教えられた。「敵に航跡を知られてしまうから」とのことであった。さらに、

「万が一、船が沈む時はベルが3回鳴らされる」

 とも伝えられた。

「真珠湾の復讐鬼」と呼ばれた新型潜水艦が迫っていた

 ナモ103船団は敵潜水艦の攻撃を警戒し、ジグザグに進みながら長崎を目指した。

 しかし、じつはこの時、船はすでに敵潜水艦に追尾されていたのである。

対馬丸を追っていた「ボーフィン」 ©getty

 対馬丸を追っていた米軍の潜水艦「ボーフィン」は、1942年に進水。「真珠湾の復讐鬼」とのニックネームを冠された新型の潜水艦である。

 ボーフィンはそれまでにも多くの日本の艦船を沈めていた。最高速力は20ノット(時速約37キロ)にも達した。

 ボーフィンは対馬丸を含むナモ103船団を追尾し、浮上と潜航を繰り返しながら攻撃の機会を探っていた。やがてボーフィンは鹿児島県トカラ列島の悪石島に先回りし、待ち伏せて魚雷攻撃を加えることにした。

 対馬丸が那覇港を出て2日目の午後には、何度か雨が降った。近くで台風が発生し、天候は不安定になりつつあった。

 そんななか、日本側もレーダー探知により、敵潜水艦の存在を察知。船団の駆逐艦「蓮」が捜索したが、艦影を発見することはできなかった。

 対馬丸の船員たちも、双眼鏡での見張りに全力を注いだ。

 しかし、ボーフィンはそんな船団の動きを冷静に分析していた。そして、船団の中で最も速力の遅い対馬丸が、魚雷攻撃の標的として選定された。

 対馬丸の乗員の大半が子供だったことは、ボーフィンの乗組員も知らなかったとされる。

(文中敬称略:#2に続く

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