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 結局、対馬丸には船員や兵員も合わせると1800人近くもの人々が乗船したと推計されている。

始まった航海…夕食のカレーと子供たちの笑顔

 長崎への航海は、船団を組んで行われることになっていた。対馬丸のほか、同じく疎開民を乗せた和浦丸、暁空丸(ぎょうくうまる)という二隻の貨物船と、宇治と蓮(はす)という2隻の護衛艦から成る船団である。船団は「ナモ103船団」と命名された。

 午後6時35分、対馬丸はいよいよ出航。速やかにほかの船と合流し、一つの船団が形成された。

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 一路、船団は北に向かって進んでいった。

 対馬丸の船体は、中央に機関室や乗組員の居住区があり、その前後にいくつもの船倉が設けられていた。船倉とは本来、積載物を置くための空間であるが、戦時中は輸送される兵員の寝起きする場所として使用されていた。

 対馬丸では、船首側の船倉に学童、船尾側の船倉には一般の疎開者が主に振り分けられた。

 子供たちは窓一つないこの船倉に戸惑った。風通しも悪く、蒸し風呂のような暑さだった。

 この日の夜には、夕食としてカレーが出た。子供たちはとても喜び、一様に笑みを浮かべた。

©iStock.com

静かに起こっていた「対馬丸」の異常

 同夜は、波もわりと穏やかだった。そんななか、船団は灯火管制のもと、先を急いだ。

 しかし、対馬丸にはすでに異常が起きていた。機関部で故障が発生したのである。そのため本来なら14ノット(時速約26キロ)ほど出るはずの速力が、約9ノット(時速約16・6キロ)まで低下してしまった。

 対馬丸は船団から遅れがちとなった。船団は予定よりも縦に伸びた状態で進んだ。

 翌22日、子供たちには「勝手に甲板に出てはいけない」と指示が出された。しかし、何人かの男の子たちは船内を歩き回るなど、「探検」を楽しんだ。蒸し暑い船倉にずっと閉じこもっていることは、元気の良い少年たちには無理な話であった。その一方、船酔いに苦しむ子も少なくなかったという。