「本土に行ける」「雪が見られる」那覇からの出発の日
対馬丸の出航当日、那覇港の埠頭(ふとう)は大勢の人たちで溢れ返った。学童疎開するのは、沖縄市内の八ヶ所の国民学校などから集まった子供たちであった。リュックサックを背負ったり、大きな鞄を手にした子供たちは、学校ごとに集まって乗船の時間を待った。対馬丸は那覇港から長崎へと向かう予定だった。
乗船が始まったのは、夕方であった。乗船者たちは桟橋からまず小さな舟艇に乗り、那覇港沖に碇泊する対馬丸まで移動した。巨大な貨物船である対馬丸は、那覇港の岸壁に着岸できなかったのである。
舟艇が対馬丸まで着くと、そこからタラップや梯子(はしご)を使って船体に乗り移った。子供たちは対馬丸の巨体を目の前にして、興奮を隠せない様子だったという。その中の一人で、当時、10歳だった上原清はこう語る。
「戦時中の疎開ということでしたが、正直に言うと私としてはそこまで切羽詰まった気持ちではありませんでした。対馬丸のような大きな船に乗るのは初めてでしたし、旅行にでも行くような感覚でした。そこまで深刻な雰囲気ではなかったと思います」
子供たちの中には、
「ヤマト(本土)に行ける」
「汽車に乗りたい」
「白米が食べられる」
などとはしゃぐ子たちもいた。「本土で冬を迎えたら雪が見られる」ことを楽しみにしている子も多かったという。
軍艦ではなく貨物船だった「対馬丸」
そんな彼らが乗船した対馬丸は、建造から30年ほど経った貨物船で、全長約135メートル、総トン数6700トンを超える大型船である。戦前は北米などの外国航路で活躍し、関東大震災の際には避難民の退避に使用されたこともあった。
しかし、戦時中には主に兵員や物資の輸送に使われるようになった。南方の戦線に兵員を運び、その帰りに様々な物資を積んで日本に戻るのである。甲板には大砲も備え付けられた。
そんな対馬丸が、学童疎開船として使用されることになったのである。
だが、当日まで疎開船が貨物船だということはほぼ知らされていなかった。いくつかの学校は「疎開船が軍艦ではなかった」ことを理由に、土壇場で疎開を取りやめた。あとから考えれば、これが大きな運命の分かれ目となった。