対馬丸は最後、船首を上にしてほぼ垂直となり、海中に消えていった。
沈没までの時間は、被弾からわずか10分ほどだったとされる。船倉にいた子供たちの多くが、甲板に上がることができないまま、船とともに海中に沈んだ。
流れ出た重油、漂う死体…漂流者たちの運命
船から海に飛び込んだ子供たちは、丸太や木箱、ドラム缶、樽(たる)などの浮遊物になんとか捕まろうとした。流れ出た重油が身体にまとわりついた。すでに辺り一帯に多くの死体が浮いていた。
子供を救出するために尽力する船員や、自分の救命胴衣を他者に譲った兵士がいた一方、次のような哀しい光景もあった。当時、国民学校の4年生だった平良啓子はこう記す。
〈50メートル先で人々のざわめきが聞こえる。私もあそこへ行こうと向きを変えると、大きな物体と屍(しかばね)の群で抜け出せそうにもない。頼みの醤油樽(しょうゆだる)がじゃまになったので放り投げてしまった。浪の揺れるままに、ひとかたまりになっている屍を踏み分け、やっと這(は)い出ることができた。そこからは、救命胴衣を頼りにざわめく方へ泳いで行った。
そこでは、一つのイカダを何十人もの人々が、奪い合っている。すがりついても、力のあるものが、力の弱い者を振り落としてくい下がって行く。やっと這い上がったかと思うと、また次の人に引きずり落とされる〉(『あゝ学童疎開船対馬丸』〔新里清篤編 対馬丸遭難者遺族会刊〕ルビは引用者による)
8月といえども、夜の海は冷たかった。冷えが漂流者たちの気力と体力を奪っていった。
そんななか、青白い夜光虫がやけに美しく輝いていたという。
その後も一人、また一人と海中に消えていった。やがて悲鳴さえも聞こえなくなり、周囲は不気味な静けさに包まれた。この辺り一帯の海は潮の流れが速く、身体を浮かせているのも困難だった。
「娘がしだいに冷えていくのがわかった」
翌朝までに多くの者が亡くなった。生存者たちはあちこちに流されたが、なかには運良く漁船に救助された者もいた。しかし、多くの漂流者たちの戦いはなおも続いた。
さらに悪いことに、台風が次第に接近していた関係で、波はより高くなっていった。
漂流者たちは喉の渇きに苦しめられた。雨が降ると、口を開けて雨粒を飲んだ。
引率教員の田名宗徳(だなそうとく)は、家族一緒に疎開する予定で、妻と八歳になる娘の圭子とともに対馬丸に乗っていた。
沈没後、圭子とは一緒にいることができたが、妻とは離れ離れになってしまった。しかし、イカダに乗って漂流している間に、運良く妻とも再会することができた。以後、家族3人でイカダに乗っていたが、遭難から3日目の夜、悲劇は起きた。田名はこう記す。