そのとき突然、ドボンという大きな水の音がしました。前のいかだに乗っていた若い娘さんが海へ落ちたのです。あっという間にいかだから5、6メートルはなれてしまいました。助けてと叫びながら、もがいています。わたしは夢中で海に飛びこみ、やっといかだの上へ引き上げました。なんとか息をととのえてから、
「みんな、眠らないでいかだによくつかまっているんだ」
と、注意しました。それは自分に言い聞かせる言葉だったかもしれません〉(『満天の星』)
数日間の漂流の末、中島らのイカダは海軍の巡視艇に救助された。
上原清もイカダで漂流していた。
「私が一番つらかったのは、喉の渇きでした。海水を飲もうかと思ったこともありましたが、やはり飲めませんでした」
無論、飢えも深刻だった。
「一緒にイカダに乗っていた友人が、一匹のカワハギを捕まえたことがありました。その友人は歯でカワハギの皮を引きちぎると、わずかな身を皆に分けてくれました。小さな魚肉でしたが、あれは嬉しかったですね」
上原たちは結局、6日間も漂流した末、沈没地点から約150キロも離れた奄美大島に漂着した。
この対馬丸事件の犠牲者数は、約1500人にも及んだ。そのうちの800人ほどが子供であった。
救助された者たちの多くは、鹿児島県の病院や旅館に収容された。
彼らには「箝口令(かんこうれい)」が出された。遭難のことを固く口止めされたのである。これは事件が明るみとなって疎開計画がさらに遅延することを危惧(きぐ)しての対応であったと言われている。
しかし、対馬丸が遭難したという情報は結局、沖縄じゅうに広がっていった。
たどり着いた疎開先で知った「沖縄の悲劇」
対馬丸事件の2ヶ月後にあたる10月10日、沖縄は大空襲に見舞われた。俗に言う「十・十空襲」である。
約1400機もの米軍機による9時間にも及ぶ波状攻撃の結果、那覇市の大半が焼き払われ、死者数は約700人に達した。
昭和20(1945)年3月からは、ついに沖縄戦が勃発。約12万人もの県民が犠牲になったとされる。
対馬丸事件でなんとか生き残り、鹿児島や宮崎などで疎開生活を続けていた子供たちの多くが、終戦後に両親の死と直面することになった。
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(文中敬称略)