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前線から重症患者が絶えなかった「病院」も標的に

 第二次上海事変は日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど流血が多い戦場と評された。夥しい犠牲者が出る中、負傷兵に対する救護活動が喫緊の課題となる。軍からの派遣要請に応えて1937年9月26日、日本赤十字社兵庫支部が第15救護班、愛知支部が第35救護班を編成し、上海の戦線へ派遣する。

湊川神社に誓をたてて兵庫班の出発

 派遣団のうち日本赤十字社兵庫支部が発行した絵はがきが残る。「湊川神社に誓をたてて兵庫班の出発」では、救護班の看護婦20人が収まる。湊川神社は戦前の皇国史観において欠かせない聖地の一つだ。「皇室に忠義を尽くした第一の功臣」と称された後醍醐天皇方の武将楠木正成が足利尊氏の大軍と戦い、壮絶な死を遂げた地だ。そんな正成の最期を彷彿させる地において、若い女性たちが決死の覚悟を求められる場面でもあった。

 兵庫支部の救護班は神戸を出発してから船旅は平穏に過ぎた。ところが10月3日の上陸直前に急変する。輸送艦に掲げる赤十字の国際平和標識は黙殺され、中国軍から「暴戻(ぼうれい)な集中射撃」「迫撃砲うなる弾雨」を受ける。戦地の洗礼だ。「兵站病院へ向って出発せんとする兵庫班(上海にて)」は攻撃直後の姿となる。

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兵站病院に向って出発せんとする兵庫班(「ラップナウ・コレクション」より)

 船上の仲間に見送られる中、トラックの荷台に乗せられた看護婦たちは微笑みながらも緊張感が漂う。派遣先は紡績工場を改造した建物だった。後に「上海兵站病院(後の上海陸軍病院)」と呼ばれる。この「病院」は前線から搬送される重症患者が絶えなかった。戦闘区域は広範囲に渡り、日本赤十字社の「病院」さえも中国軍の標的となった。激しい空襲に曝されながら彼女たちは傷病兵の救護活動に尽くした。

 兵庫県支部の任務は1年7カ月間に及ぶ。戦地での功績が著しい彼女たちを囲み、神戸新聞社が座談会を開催した。出席者は24人(救護班側)、看護婦の年齢は25、26歳が中心だった。座談会の記録として『愛は輝く』が1939(昭和14)年10月に発刊された。

「上陸と同時に砲撃を受けた時は怖くてビクビクした」「当初は医療機器や医薬品が不十分。便器さえなかった」「18日間入浴できなかった」「失明した兵士が気の毒だった」などとする内容の意見も寄せられた。終始和やかな雰囲気が漂い、戦場から離れた安堵感と困難な仕事を完遂した自信に満ちている。

従軍看護婦の理想とされた「白衣の天使」

 赤十字社は戦時救護を大きな柱とした。ナイチンゲールの創立以来、敵と味方の区別なく看護するとした人道の精神を受け継いできた。日本赤十字社もまたこの流れを汲み、西南戦争の最中、1877(明治10)年5月3日に設立された博愛社を前身とし、一貫して日本の戦時救護を支えてきた。

 赤十字社は国際的な民間団体だ。自国の傷病兵だけではなく、時には独自の救済活動を展開したが、日中・太平洋戦争に入ると戦時体制に組み込まれていく。戦争協力を惜しまない「白衣の天使」が従軍看護婦の理想とされ、ひいては日本人女性の模範とされた。