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かくて『シン・ゴジラ』は「国民映画」となりき

かくて『シン・ゴジラ』は「国民映画」となりき

大ヒット映画の恐怖と夢

2017/11/12
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後半は夢のよう

 しかし、これだけ世界を重ねても『シン・ゴジラ』はまだ「国民映画」になれない。映画やアニメのコアなファンとマニアの世界にとどまる。そこを超えて行けたのは、この映画が、映画やアニメの虚構とは別の現実の世界をも重ねていたからである。日本国民が2011年に体験した国家存亡の危機と恐怖。東日本大震災および原発事故だ。地響きをたて、波を盛り上げてやってくるゴジラは、地震であり津波である。放射能をまきちらすゴジラは壊れた原子炉である。首相は決断できず、官僚はタテ割りにこだわって混乱を助長し、専門家の予測は外れっぱなしで「想定外」の事態が続出する。「3・11」の世界を思い出せれば、『シン・ゴジラ』はそれだけで迫真的映画なのだ。第1作も『エヴァ』も知らずともよい。第1作が1954年の現実とつながっていたからこそ大ヒットしたように、『シン・ゴジラ』は2011年と重なることで「国民映画」になれたのだろう。

 しかも『シン・ゴジラ』を「原発事故映画」として観た場合、大団円を導く「最終作戦(ヤシオリ作戦)」のくだりはとても示唆的。東京駅前に壊れた原発のように放射能を垂れ流しながら眠るゴジラ。そこに決死隊が近づき、ゴジラの体内に液剤を大量投入。凍結させる。活躍するのはミキサー車やクレーン車。そのさまはどう観ても「石棺」や「水棺」や「凍土壁」を作って原発事故を収束させる作業と重なる。決死隊の姿は福島第一原発の爆発直前にベントを成功させようとした作業員たちを彷彿とさせる。活劇調の華々しいスペクタクルで、ゴジラは本当に凍りつき、東京駅前で巨大神像と化す。前半の締めのあまりに絶望的なカタストロフと好一対をなす、この楽天的名場面。それを伴奏する音楽は、やはり伊福部昭、といっても、前半のシリアスな展開を支えた重厚な類の曲ではない。1959年の『宇宙大戦争』のための熱狂的なマーチである。『宇宙大戦争』は荒唐無稽なスペース・オペラ。地球軍とナタール星人が宇宙空間で大決戦。地球軍大勝利! 圧倒的快感に満たされて終わる。娯楽巨編の絵空事を本当らしく感じるための痛快なノリノリの音楽。ファンは聴けばただちにそのようなモードに入り、躁状態になる。

福島第1原発原子力建屋への放水作業 写真提供:東京電力

 これはつまり一種の夢の場面ではないか。前半のカタストロフは2011年の本当の日本。そこでは原子炉が3基も爆発した。風向き次第では真に破滅的だった。収束作業も困難を極める。その大破局を「ゴジラ映画」らしくすれば前半の締めになる。ゴジラが『風の谷のナウシカ』で世界を滅ぼした巨神兵のようになる。後半はその「滅亡後の物語」。前半はすべてがうまく行かなかったのに、後半はすべてがうまく行く。しかも前半の手に汗握るリアルさを喪失している。脚本も演出も前半の微に入り細を穿ったドキュメンタリズムをかなぐりすて、テレビの「戦隊物」のような調子を帯びる。「そんな馬鹿な!」という場面の連続。でも音楽に助けられつつ活劇のノリで押し切る。米国も一部の理解者が協力してくれる。前半の破滅の呼び水となった米軍は「ヤシオリ作戦」では日本の立派な「トモダチ」だ。「反米」転じて「親米」。ゴジラという「壊れた原発」は見事無害化され、日本は復興と再生へ。米国ともなお仲良くやれる。ハッピーエンド。でも、それはあくまでマンガ的にしか描かれない。そこに含蓄がある。

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 東宝による『シン・ゴジラ』の宣伝文句は「現実対虚構」。だが私には前半が現実で、後半が虚構に思えた。前半は2011年的現実の「ゴジラ的翻訳」。後半が2011年的悔恨のユートピア的代償。「いい夢」で束の間でも現実を忘れたいということだ。

『シン・ゴジラ』に続編があるとすれば、後半は夢と気づくところから始まる手もあると思う。「巨災対」のリーダー、長谷川博己が東京崩壊の中で気絶して一瞬に観た長い夢。夢が覚めた先には『日本沈没』か『ノストラダムスの大予言』級の苦難が待ち受けているに違いない。

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