文春オンライン

小田急と交わる南武線“ナゾの終着駅”「登戸」には何がある? 多摩川の近くにどうして“国民的ロボ”が…

2021/09/06

genre : ライフ, 歴史, , 社会

note

1927年、鉄道がやってきた

 登戸に鉄道がやってきたのは1927年のことだ。同年3月に南武線(当時は南武鉄道)、4月に小田急線の駅が開業する。南武線側は最初から登戸駅と名乗っていたが、小田急サイドは稲田多摩川駅と名付けた。1955年に登戸多摩川、1958年に現在の登戸駅に改称した。わずかに先行された南武線への対抗意識があったのかどうか。

 ともかく、ほぼ同時期にやってきた2路線によって登戸の人たちは渡し船を使う必要がなくなった。ただ、それでも登戸はそれまでとさしてかわらない小さな農村のままだった。溝ノ口は大山街道の宿場がルーツで、街としての発展は3兄弟の中でいちばん早い。武蔵小杉も中原街道の宿場だったが、南武線開通後の1930年代以降に工場が相次いで進出して工業都市となっていった。

 それに対して、登戸は長らく農村に近い状況が続いていた。津久井道沿いに古くからの集落があるくらいで、駅の周りが本格的に発展したのは戦後になってからだ。実際、南武線は私鉄の南武鉄道時代、登戸駅に近い多摩川の河川敷の砂利を運んでいたくらいである(国有化は1944年)。小田急線との乗り換えといっても、あまり注目されることがなかったのだろう。1927年には小田急が生田緑地に向ヶ丘遊園を開園していたが、最寄り駅ではなかった登戸駅にはさほど恩恵もなかった。

ADVERTISEMENT

南武線の“中間”に位置する「登戸」

 それでも戦後に人口が急増すると都心にもほど近い登戸も宅地化の波にのまれてゆく。生田緑地のある丘陵地は川崎市が緑地として残すことを決めたことで宅地開発から免れて憩いの場として残り、中世には枡形城が置かれた丘陵の山並みは登戸駅の連絡橋からもよく見える。

 工業地帯からタワマンの森に生まれ変わった長男の武蔵小杉駅、大山街道の宿場街の賑わいを引き継いだ次男の武蔵溝ノ口駅、そしてそうした時代のうねりに若干取り残された感のある登戸駅。だが、東京都心に向かうにあたっての利便性は武蔵小杉・武蔵溝ノ口ともほとんど変わらない。3兄弟で唯一新宿に向かうという強みもある。

 南武線は川崎駅から立川駅まで1時間弱。登戸駅はおおよそその中間に位置している。武蔵小杉も武蔵溝ノ口も、いずれももっと川崎駅に近い。登戸駅は南武線だけでいえば川崎というターミナルからは遠い部類だ。が、にもかかわらず小田急線に乗り継げば他の2駅ともまったく遜色はないのだ。

 

 そんな登戸の街、駅前はもとより、駅の周りを歩いていても再開発の予兆も感じられる。あの武蔵小杉にしたって、21世紀になったばかりの頃には今のようなタワマンの森なんて想像もできなかった。だから、登戸駅もあっという間に大変貌を遂げるのかもしれない。かもしれないが、今のままの登戸も、ドラえもんに愛されそうな、過ごしやすそうな街である。

写真=鼠入昌史

小田急と交わる南武線“ナゾの終着駅”「登戸」には何がある? 多摩川の近くにどうして“国民的ロボ”が…

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー