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新人賞に投稿し続けた22年、覚せい剤で廃人同然だった姉の最期…作家・樋口有介が語った“人生のどうにもならなさ”

2021/12/17
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「親の手前、彼女も自分の部屋を借りていたんですが、実質的には私の部屋で同棲していました。在学中は飛田給の駅近くの風呂なし6畳1間のアパートで、2年くらい住んだかな。彼女が卒業した後は、向こうの就職先に近かった東中野や、下高井戸から出ている世田谷線沿線の狭いアパートで暮らしました。私の小説に世田谷線沿線がよく出てくるのは、散歩好きの彼女と周辺をよく歩いていたからです。

『彼女はたぶん魔法を使う』(創元推理文庫)

 私自身は6年まで大学に籍を置いて中退。就職はせず、アルバイトを転々としました。『青焼(あおやき)』というテスト印刷の職人仕事をしたり、コンクリート関係の業界紙で記者をしたり。給料は安くていいから、あまり忙しくない仕事をして、残りは小説を書く時間に当てる。そんな生活に、彼女は付いてきてくれた。

 彼女の仕事場が千駄ヶ谷で、村上春樹さんがマスターをやっていた喫茶店によくランチを食べに行っていたらしいんです。ある時、『喫茶店のマスターが村上春樹になっちゃった』って。『私たちも喫茶店を開こう。そうしたら、あなたも小説家になれるかもよ』なんて言ってね。

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29歳のとき、初めての「1次通過」

 そんな頃、確か29歳だったと思うけど、文學界の新人賞で初めて1次に通ったんですよ。『喫茶店なんてやってられるか!』と(笑)。次は獲れるぞ、と思い込んだんですよ。もう1回だけ1次審査を通って、それっきりでしたけどね。

『ピース』(中公文庫)

 彼女が30歳を過ぎた頃、別れ話を切り出されたんです。書いても書いても賞に引っ掛からず、これから先も貧乏暮らしに付き合わせるのは申し訳ないと思っていたから、どこかホッとしました。彼女はその後、お医者さんと結婚したらしい。その話を知り合いづてで聞いた時ほど、嬉しいと思ったことは人生でないな。

 そのころは西調布のアパートに住んで、業界紙の記者をしていたんですが、でも、これじゃあおんなじことの繰り返しじゃないかと。

 そんな時に、電車に乗ってふらっと埼玉の秩父へ行ってみたんです。気分転換によその街へ出かけていって、地元の不動産屋に入ってみることはそれまでもよくやっていたんですが、そこのお兄ちゃんが親切にいろいろ案内してくれて。踏み分け道を進んでいった山奥に、もう誰も住んでいない4戸の集落があったんですね。そのうちの1戸、木造3階建ての家の1階にある離れを、家主さんの好意で、タダで貸してもらえることになりました。

 バイトをやめて今までの人間関係も一旦断ち切って、この家で気が済むまで小説を書いてみようと決めました。