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“他人事”ではないロシア軍によるウクライナ侵攻…いまこそ知るべき、終戦後の日本軍を襲ったソ連軍の「傍若無人」な侵攻とは?

『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』より

2022/03/15

source : 文春新書

genre : ニュース, 国際, 政治, 歴史

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 ソ連の上陸部隊を迎え撃ったのは、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊である。村上大隊は水際作戦の下、上陸部隊に対し猛攻撃を加え、竹田浜一帯は熾烈な戦場となった。しかし、時間の経過と共に、ソ連軍の主力部隊は、徐々に上陸に成功しつつあった。

 竹田浜側防陣地にいた村上は、四嶺山の戦闘指揮所に移動した。四嶺山には縦横無尽に壕が掘られており、内部にはいくつもの部屋が造られていた。ここを新たな拠点として軍勢を整え、反攻に出ようという作戦である。

 しかしやがて、この四嶺山陣地にも、迫撃砲の集中砲火が始まった。ソ連軍の歩兵部隊が前進してくる。日本軍は各種火砲による砲撃を浴びせたが、敵は四嶺山の裾野に取り付き始めていた。

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 劣勢に陥った日本軍だが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊が、島南部の戦車連隊本部から四嶺山の救援に向かうとの連絡が入り、四嶺山の兵たちの士気は一気にあがった。

ヘリから見下ろした占守島 ©時事通信社

日本軍の戦車隊が、ソ連軍を次々と撃破

 「十一」という隊号をもじって通称「士魂部隊」と呼ばれた戦車部隊の指揮を執る池田末男大佐は、陸士34期で、愛知県豊橋市の出身。占守島に着任したのは1945年(昭和20年)1月からである。

 四嶺山への出撃には、時間を要した。終戦の報に触れた後、車輛の整備も不十分となっていたし、燃料の入ったドラム缶も地中に埋めていた。火を落として久しいエンジンも、暖機が必要であった。前日には「戦車を海に捨てようか」と話していたような状況だったのである。

 それでも担当兵たちは、寸刻を争う中、懸命に作業を進め、戦車を稼働させた。

 池田が兵士たちを前に訓示を述べた。

 われわれは大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない

 (『戦車第十一聯隊史』)

 午前5時30分、エンジンの力強い轟音が鳴り響く中、戦車部隊は前進を開始し、いまだ霧深い占守街道を速度を上げながら北上した。

 四嶺山周辺では、すでに激しい白兵戦が繰り広げられていた。戦闘指揮所となっている本部壕では、村上少佐が情報の収集に躍起となっていたが、通信が途絶えて孤立していた。

 そんな戦況下に池田連隊が到着した。午前6時20分頃、池田大佐率いる戦車群が、四嶺山南麓の台地に姿を現したのである。

 池田率いる戦車隊が、ソ連軍を次々と撃破していく。四嶺山を包囲しようとしていたソ連兵たちは混乱に陥り、命令系統を失って後退を始めた。戦車連隊の活躍により、日本軍は四嶺山を死守することに成功したのである。