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“他人事”ではないロシア軍によるウクライナ侵攻…いまこそ知るべき、終戦後の日本軍を襲ったソ連軍の「傍若無人」な侵攻とは?

『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』より

2022/03/15

source : 文春新書

genre : ニュース, 国際, 政治, 歴史

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 その後、池田戦車隊は一気に竹田浜に向かって直進。形勢は逆転した。これに対し、ソ連軍は急遽、対戦車砲を前面に押し出し、砲撃を加えた。

 そんな中、池田の乗る戦車の側面に、1発の砲弾が突き刺さった。戦車は一瞬にして炎上し、池田も帰らぬ人となった。

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 島の各所で激しい戦闘が続く中、「午後4時」は確実に近づいてくる。樋口は午後1時の時点で大本営に対し、以下のような打電をしている。

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 今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第九十一師の一部兵力、これを邀(むか)えて自衛戦闘続行中なり。敵はさきに停戦を公表しながら、この挙に出るははなはだ不都合なるをもって、関係機関より、すみやかに折衝せられたし

 (『流氷の海』相良俊輔)

 これを受けて大本営は、マニラのマッカーサー司令部宛てに、ソ連に停戦するよう指導することを求めた。マッカーサーはソ連国防軍アントノフ参謀長に停戦を求めたが、ソ連軍最高司令部はこれを拒否した。

日本軍は占守島での戦闘では決して負けていなかったが…

 現地でも日本側は、戦闘行動停止のための軍使を送るなど、停戦交渉を試みたが、ソ連側に停戦の意志はなく、交渉は二転三転し、結論が出るには至らなかった。こうして時刻は午後4時を迎え、これをもって日本軍は優勢のまま、積極的戦闘を停止した。しかし、ソ連軍上陸部隊は攻撃を続けたため、実際の戦闘はその後も続いた。

 現地日本軍は大本営の決めた「午後4時」という期限を守ろうとし、実際に積極的な戦闘を自ら止めたのだが、この点に関して樋口は、複雑な思いを抱いていたようである。

 私はこの戦闘を「自衛行動」即ち「自衛の為の戦闘」と認めたのである。自衛戦闘は「不法者側の謝罪」により終慮すべきものとの信念にもとずき、本戦争の成果を待った。私は残念ながら、十六時を以て戦闘を止めた事を知り、不法者膚懲(ようちょう)の不徹底を遺憾とした

(『遺稿集』)

 これを読むと、樋口が必ずしも「午後4時停戦」を厳命していたわけではなかった様子が認められる。それどころか、午後4時をもって現地軍が銃を置いたことを、遺憾とまで評している。

 結局、現地での停戦交渉はその後も思うように進まず、翌19日も散発的な戦闘が続いた。

 同日、日本側は再度、軍使を送り、ソ連側もようやく受け入れ交渉に入る。その後も紆余曲折があったが、最終的な停戦が成立したのは、21日のことであった。この日、師団司令部は、第5方面軍からの1通の電報を受領した。それは改めて停戦を命じる内容であり、さらに武器の引き渡しにも応じるようにという内容であった。『戦車第十一聯隊史』には次のように記されている。

 八月二十一日杉野旅団長は各部隊に対し次の要旨の命令を下達した。『各部隊は停戦協定に基き夫々(それぞれ)駐屯地に復帰し後命を待つべし。』と。(略)この夜武装解除に関する旅団命令を受けた。『明二十二日正午三好野飛行場に於て武装解除を行う』

 実際の武装解除は、予定より1日延びて23日から行われた。

 占守島の戦いにおいて、多くの犠牲者を出したのはソ連側であった。日ソ両国のそれぞれの公式記録を参照すると、この戦いでの日本側の死傷者は600~1000名。これに対し、ソ連側の死傷者は1500~4000名という数字となっている。

 日本軍は占守島での戦闘においては決して負けていなかったが、日本国が敗戦を受け入れている以上、武装解除に応じるしか他に手はなかったのである。