文春オンライン

「脱ぐことは怖くなかったです」グラドル・佐藤寛子の「ヌードの夜」出演のきっかけとなった“大物俳優”

佐藤寛子さんインタビュー #1

2023/01/22
note

――佐藤さんはグラビア時代、中学と高校で生徒会長だったことから「会長」が愛称でした。それだけ忙しくて、よく生徒会長ができましたね。

佐藤 本当ですね。中学校の時に生徒会長をやっていた流れでやっていただけで、生徒会長だから特に何をするわけでもないんですよ。勉強が特にできる訳でもなくて、苦手な教科の数学では0点も取ってましたし。

――2002年には、映画「スケアー」で主演されました。監督は後に「ミッドナイトスワン」や「全裸監督」を手がける内田英治さんですが、内田さんのウィキペディアの経歴には載ってませんでした(笑)。

ADVERTISEMENT

佐藤 ほんとですか!(笑) でも内田監督とは数年前に久しぶりにお会いして飲みました。そもそも内田監督は、当時面倒を見てくれていた人と仲が良くて、佐藤寛子を主演でなにか撮ってよって言われて、多分撮ってくれたんだと思います。

――グラビアで引っ張りだこでしたが、ご自身で売れているとは感じていたんですか?

佐藤 いや、特にないです。当時売れている感覚もなければ、今はテレビなどには確かに出ていないとは思うけれど、だからって何か変わるわけでもない。自分が今したいことをずっとしているだけなので。

2002年に発売されたファースト写真集「Peek a Boo!‐ピーカ・ブー!」(ブックマン社)

頼りにしていた父を亡くした喪失感は大きかった

――グラビアについて、ご両親に反対されたりはしなかったんですか?

佐藤 反対はされなかったです。ただお父さんには「ヌードだけはやめろ」と言われてました。結局、しましたけれど。

――そのお父さんが2004年に亡くなります。佐藤さんはお父さんのことを非常に頼りにされていたそうですね。

佐藤 父にはよく相談していました。やっぱり変な人とかいっぱいいたんですよ。「もっと仕事が欲しかったら付き合おう」という謎の提案をしてくださる方もいました(笑)。もちろんお断りしましたけど。

 私をいやらしい目で見ているわけではないけれど、男性の関係者で思い入れが強い人もいて、どこかで自分のものにしておきたくなるのか「面倒を見てやっている」となってくる。仕事はしたいけれど、度を越してくるとそりゃキモいし、怖いなって思うじゃないですか。

 そんなとき、お父さんに相談したら、お父さんがその人に直接言ってくれていたんで、すごく大きな存在でした。

 

――それだけに喪失感は大きかったのですね。その頃のグラビアを見ると、顔が疲れた印象を受けます。

佐藤 たぶん全部修整しないとダメなぐらいでした。亡くなった次の週ぐらいに「月刊佐藤寛子」の撮影があって、藤代冥砂さんと瀬々敬久監督が映像を撮ってくれたんですけど、ダメでしたね。もう何をしても涙が出てきちゃうんです。