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半蔵門線“ナゾの終着駅”「中央林間」には何がある?

2023/03/06

genre : ニュース, 社会,

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開業は約100年前…そのころの「中央林間」は“都市”だった

 中央林間駅が開業したのは、案に反してそうとう古く、1929年のことだ。最初にこの地にやってきた鉄道路線は、小田急江ノ島線だ。その当時は、中央林間都市駅と名乗っていた。いまの駅名に加えて“都市”が付いていたのだ。

 となれば、このあたりはなにかしらの都市だったのかというとそれもまた違う。むしろいまのほうが遥かに都市で、開業当時の中央林間“都市”は、ほとんど何もない雑木林の中の駅に過ぎなかった。

 それでも駅名に“都市”がついていたのは、小田急の創業者である利光鶴松がこの一帯に“林間都市”を建設しようという壮大な構想を抱いていたからだ。

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 1927年、一気呵成に小田急小田原線を開業させた利光は、その2年後に江ノ島線も全線で営業を開始。行楽地であった藤沢や江の島へのアクセスという狙いはむろんのこと、林間都市の開発もこの路線の大きな目的であった。

 

“田園都市”を目指した開発の行方は…

 実際に、小田急は路線開業に先駆けて1925年から沿線の用地買収を進めている。当時の地名でいうと買収の対象になったのは大和村・大野村・座間村一帯の約100万坪。そこに広大な住宅地を建設し、さらにスポーツ施設や教育施設、工場などを建設・誘致して巨大な人工都市を作り上げようというのが、利光の野望だったのだ。

 この計画のベースにあるのは、渋沢栄一らによる田園都市開発(現在の東急目黒線・東横線沿線、田園調布など)や小林一三による阪急電鉄の沿線開発だったようだ。

 彼らのいう田園都市構想とは、簡単に言えば緑地をふんだんに取り入れて住みやすさを追求した郊外のベッドタウンのこと。都心部への通勤の便を確保するために、鉄道とは一体不可分の関係にあった。利光は、そうした理想郷を江ノ島線沿線の雑木林の中に作ろうと考えた。それが、林間都市計画なのだ。

 

 地元の地主さんたちも協力し、大和村の村長や大地主の長谷川彦太郎さんらがかなりの土地を小田急に売却したという。いまでいうなら再開発のための立ち退きだ。が、当時は何もない雑木林だったわけで、当時の価格にして坪単価1円30銭前後での買収だった。

 江ノ島線が開業した1929年からは宅地の分譲もスタート。最初に分譲されたのは南林間駅(当時は南林間都市駅)周辺で、中央林間駅周辺の分譲がはじまったのは1931年。分譲価格は坪あたり最高で33円だったという。

 さらに大和学園(聖セシリア女子中学・高校)の開校やゴルフ場の開設なども進み、林間都市計画は順調に進む……はずだったが、現実は厳しかった。