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《ノーベル賞受賞》コロナワクチンの生みの親が語る「マクドナルドより時給が低い」と言われた“研究者人生”

《ノーベル賞受賞》コロナワクチンの生みの親が語る「マクドナルドより時給が低い」と言われた“研究者人生”

カタリン・カリコ博士インタビュー #2

2023/10/06

source : 文春新書

genre : ライフ, 社会, 国際

note

 夫はエンジニアとして働いていましたし、娘はまだ2歳でした。母と姉もハンガリーにいますから、できれば離れたくなかったのですが、研究を続けるためには渡米するしかありませんでした。

 当時のハンガリーはソ連の影響下にありましたので、自由に海外渡航ができる状況ではありません。アメリカの大学からの正式なオファーでしたので、出国許可はおりましたが、外貨の持ち出しは100ドル(約2万円)までしか認められません。100ドルでは渡米しても生活できません。

 持っていた自動車をヤミ市場で売って、資金を工面したものの、今度は外貨に両替するのに苦労しました。それでも外国人学生に協力してもらって、なんとか900ポンド(約1000ドル)を用意できました。

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 ようやくかき集めた外貨が当局に見つかったら大変です。そこで娘のテディベアの中に隠したんです。幼かった娘は何も知らずに、そのぬいぐるみを抱いて出国しました。今はもう笑い話ですけれど、当時は本当に怖くて緊張しました。絶対にテディベアから目を離さないようにしていたのを覚えています。

「ここに残るか、ハンガリーに帰るか」

 テンプル大学でもしばらくshRNAの研究をしていましたが、細胞の中にうまく入れられず、手こずっていました。

 そうこうしているうちに、ジョンズ・ホプキンス大学からオファーが届きました。1988年のことです。世界屈指と言われる医学部を擁する名門大学で研究ができるなんて夢のようでしたが、それもすぐに潰えました。

 私の上司が、「ここに残るか、ハンガリーに帰るか」とオファーを断るように迫ったのです。おそらく研究者としての嫉妬からでしょう。信頼していた上司でしたが、彼はジョンズ・ホプキンス大学に「カリコはハンガリーからの逃亡者だ」と言って、オファーを取り下げるように要求までしていました。

 テンプル大学を辞めざるを得なくなり、ツテを頼って連邦政府の健康科学大学に移ることが出来ました。そこの病理学科で1年間、分子生物学を学びました。

研究対象をmRNAに

 翌1989年、ペンシルバニア大学の医学部に移り、エリオット・バーナサン教授のもとで研究を続けました。ポストは研究助教で、年俸は4万ドルほど。さほど良い条件ではなかったですが、とにかく研究を続けたかったんです。

 この頃から私はmRNAを研究するようになりました。患者の治療に使えるmRNAを作ることが目標でした。当時はRNAよりもDNAの研究のほうがはるかに多く、主流でした。1990年にはアメリカで重度の免疫不全疾患に対する初の遺伝子治療が成功しています。

 それでも私がmRNAを選んだのは、治療が終わった後、消えてなくなるmRNAのほうが患者にとって望ましいと考えたからです。これは当時からずっと私が主張し続けていることで、それでいまもmRNAを研究しているのです。