昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「美大はツブシがきかない」という定説を覆せるか――東北芸工大学長・中山ダイスケの考え

アーティストであり学長、中山ダイスケ氏が語る #1

2018/04/30

 先鋭的なアーティストとしてニューヨークで活躍していた中山ダイスケ氏が帰国し、山形市にある東北芸術工科大学の教授の職に就いたのは、2007年のこと。デザイン工学部長を経て、今春、中山氏は、50歳という若さで同大学の学長に抜擢された。

 いま、多くの大学は、少子化によって岐路に立たされている。都市部の中堅大学でさえ経営難が危ぶまれる中、地方都市の芸術大学はどう生き残ろうとしているのか。さらには、芸術大学そのものの存在価値、ツブシがきかないと言われる芸大生の生きる道をどこに見出していくのか——。

 難しい時代に舵取りを任された中山氏は、いくつものアイディアをもってこの危機を突破し、新たな展開を、と意気込む。芸術大学の学生こそが、これからの時代には必要となっていく、と中山新学長は力強く語った。

今春、東北芸術工科大学の学長に就任した中山ダイスケ氏 ©杉山拓也/文藝春秋

◆◆◆

大学の先生になるきっかけは9.11のテロ

――そもそも、ニューヨークにスタジオを構え、アーティストとして多くの立体作品や絵画などを発表し、舞台美術でも活躍されていたのに、なぜ、大学の先生に転じたのでしょう。創作活動から離れることに抵抗はなかったのですか。

 9.11のアメリカ同時多発テロ事件が大きなきっかけでした。あの日、2機目がワールドトレードセンターに突入するのを間近で肉眼で見てしまったりして、そのあと、ちょっと制作ができなくなってしまったのです。当時、請け負っていたニューヨークコレクション、ファッションショーの舞台演出も全部中止になりました。それで、ちょっと、創作活動からなんとなく気持ちが離れていたんですね。ある種のPTSDみたいな状態になってしまって。東京へ帰ってきて、人に頼まれてモノのデザインや、決まっていた展覧会をしながら、けっこうボーッとしていました。

 大学の話にもつながってくるんですが、自分のキャリアばかりを考えて、がむしゃらにNYでやっていたアートから少し離れたことで、クリエイティブに対する考え方が変化しました。コレクターや、一部のアートファンの愉しみで終わっちゃう商品アートではなく、もうちょっと社会の価値観を変えるとか、わかりづらいものを質に変えて社会に戻すという仕事につながったほうが、クリエイティブのあり方として正しいんじゃないかと思うようになるんです。その頃からちょうどデザインを頼まれだしたりして、俄然クライアントワークが面白くなっていった。そんなときに東北芸工大からグラフィックデザイン学科のリニューアルを依頼されたんです。

頼まれないのがアート、頼まれるのがデザイン

――アートからデザインへと移行していったわけですが、その差は?

 誰にも頼まれていないのに自分の発想でつくり始めて、結果、誰かの目にとまるというのがアートだとすると、デザインには、必ず依頼者がいるんですね。

 いま、「デザインによる問題解決」という言葉が流行っていますけど、昔からそれは同じで、何かを解決し、より良くすることがデザイン。大学でも、まさにそれを教えています。いろんな分野や方面から頼まれる可能性があるから、君自身の趣味趣向じゃなく、こういうことも勉強しておかないといけないんだよ、と。

取材は都内にある中山氏の事務所で行った ©杉山拓也/文藝春秋

――なるほど。

 依頼を受けるこちら側が、柔らかな職人でいなければならないという意味で、教育のし甲斐もあるんです。アートの学生に苦手な世界を見せようとして、「いやあ、そんなものには興味がないんで」と言われたら、それ以上圧せませんが、デザインの学生には、「四の五の言わずに見なさい」と言える。革ジャンを着たロックな男の子にオムツのデザイン依頼が来るのがデザインの世界です。だから、いろいろ探して、掘りまくって興味を広げよう、といつもデザインの学生には言ってます。たとえば「本屋に行ったときには、自分が絶対に行かない書架にも行きなさい」とも言います。クルマやファッションが好きだとしても、そこだけでなく、裏側の手芸や料理のところにも行く。実際、本屋に行かせてレポートを書かせたりもしています。

この記事の画像