1949年、小田原で一家5人を殺害した18歳の男に死刑判決が下る。しかし、サンフランシスコ講和条約を機にした恩赦により無期懲役へ減刑、のちに仮出所を果たす。だがその結末は、さらなる凶行だった――。鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

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写真はイメージ ©getty

「死刑反対」の裁判長

 一審で死刑判決を下した裁判長の三淵乾太郎(1906-1985)が直々に杉山を訪ね、控訴するよう強く説得したのだ。

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 三淵曰く、世論、事例など諸般の事情から極刑を言い渡したが、自分は死刑反対の立場だ。個人としてはぜひ控訴審を闘ってほしい──。この言葉に押され杉山は控訴審に臨むも、東京高裁は1951年3月20日に控訴を棄却し一審の死刑判決を支持する判決を下す。

 同年9月6日の最高裁判決も上告を退け、死刑が確定。杉山は収監されていた東京拘置所から仙台拘置支所へ身柄を移送される(当時、東京拘置所には死刑執行の設備がなかった)。

 死刑囚監房で処刑を待っていた杉山に思いもよらぬ通達が寄せられるのは、それから1年後の1952年9月23日。「和歌山一家8人殺害事件」と同じく、前年1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約を記念し戦後4回目となる恩赦が実施され、死刑から無期懲役に減刑されたのである。