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連載刑務官三代 坂本敏夫が向き合った昭和の受刑者たち

刑務所に紅白出場歌手が収容されると変化が…「大阪刑務所史上最も豪華な慰問」と塀の中での“意味”

克美しげるの愛人殺人と刑務所慰問 #2

2024/03/29
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その当時、慰問にタレントたちが送られてくるのには大きな理由が…

「大阪刑務所のような暴力団組員はじめ犯罪傾向の進んでいる受刑者を収容している刑務所には、時々有名なタレントが慰問にきていました。それは、収容中の受刑者と関係があるようでした。著名な暴力団組長や抗争事件で活躍した組員が入所すると必ずと言っていいほど、豪華な慰問があったからです。

 その理由は私が退官後にわかったことですが、外部の者(組関係者)が芸能事務所にタレントの派遣を依頼していたのです。慰問があると『この慰問は、○組の○○さんへの慰問だ!』と、受刑者間では即座に噂が広まります。すると○○受刑者の株が一気に高まり、他の受刑者の彼を見る目も態度も変わり、尊敬と畏怖の念から、子分志願者が多数出てくるのです。

 歌手を2、3人送り込むと諸々の費用も含め、500万円は下らないでしょう。克美のときはレコード会社が動いたんですが、芸能人が入所するとここまで豪華になるのかと驚きました」(坂本。以下同)

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「演歌の帝王」を案内する“特別のはからい”

 当時の大阪刑務所所長も特別のはからいを施した。スターである村田英雄を、克美が作業している4区の印刷工場に案内したのである。通常はライブを行う講堂に誘導するだけで、塀の中の受刑者が働く現場を所長自らが案内するのはありえないことだった。

 4歳のときから旅芸人一座の子役として舞台を踏んだ村田英雄は元々は浪曲師であったが、作曲家古賀政男に認められて名曲「無法松の一生」を提供され、以降、歌手の道を突き進んだ。

 演歌の帝王や島倉さんがいきなり入ってきたときの印刷工場の呆気にとられた後のどよめきは想像に難くない。受刑者も慰問者も個人的なメッセージのやりとりは禁止されており、村田と克美は目礼のみを交わした。二人は1964年と65年の紅白歌合戦で共演しているのである。