1976年5月8日。羽田空港で駐車中の一台の車から、毛布にくるまれた下着姿の女性の遺体が発見された。被害者は銀座のホステスをしていたAさん。犯人は愛人関係にあった歌手で、紅白歌合戦にも出場した経験を持つ克美しげるであった。
克美はその後すぐに逮捕され、懲役10年の判決を受けた。親子三代にわたって刑務官を勤めてきた坂本敏夫は、「芸能人」が入所して起こった“慰問の変化”について、次のように語った。
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「それは大阪刑務所史上最も豪華な慰問でした」
克美が入所して早々に、所属していたレコード会社から慰問の申し込みがきた。克美への応援メッセージの慰問であることは明らかだった。しかし、刑務所側には、特定受刑者への応援に当たるような慰問は認められないという方針があった。
克美だけを優遇するわけにはいかないので、条件を出した。それは、4回のステージが可能なら慰問をお願いするというものだった。
当時の大阪刑務所は塀の中にも塀があり、5つに分割されていた。中央に保安管理棟と炊事工場があり、他の4区画はそれぞれ刑期経歴・資質等の異なる受刑者を分けて収容するために看守事務所、舎房、工場、講堂を持っていた。収容総数3000名の受刑者を対象に慰問を受け入れるには、4つの区すべてでコンサートをする必要がある。
レコード会社は渋々この条件を飲んだ。そして昭和を代表する歌手である村田英雄、島倉千代子という超ビッグネームが、バンドを従えてやってきたのである。音響機材も持ち込みで、50人のスタッフが帯同してきた。坂本は「それは大阪刑務所史上最も豪華な慰問でした」と回顧する。
タレントの慰問については、刑務所側からアプローチはしない。あくまでも慰問をしたいというタレント本人らからの申し込みを審査して受け入れる。刑務所側で準備するのは昼の弁当と感謝状だけで、ギャラはもちろん、交通費も出ない。