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採算を度外視して成功した理由

『新貿易立国論』(大泉啓一郎 著)
『新貿易立国論』(大泉啓一郎 著)

鈴木 けっこう大変でしたよ。日本で美術館などを運営する場合、土地の広さに応じて、どの程度の費用だと採算が取れるか、という目安があります。ジブリ美術館の場合、三鷹市が提供してくれた土地の面積だと、かけていいお金は15億円。ですから35億円もオーバーしている。専門家たちに取り囲まれて、「絶対にうまくいかないから止めたほうがいい」と言われたこともありますよ。

大泉 そうした声をどうはね返したのですか。

鈴木 やるしかないのです。うまくいく根拠はありませんでした。だけど、自分には運があると信じるしかない。思い返せば、ジブリアニメの第一弾『風の谷のナウシカ』もそうでした。無理だと周囲から言われながらも採算を度外視してやった。それが現在につながっているわけです。ジブリ美術館も実際に開館したら、想定を超えてうまくいった。

大泉 なにか成功の理由があったのですか。

鈴木 グッズですよ。これが僕らの想定を超えて売れた。このころアメリカから日本へ進出していた大規模なオモチャ屋の「トイザらス」では、500坪の売り場で1日500万円の売上が採算の基準だったそうです。

 それがジブリ美術館では28坪の売り場で、初日に300万円以上も売れました。しかも売上額は日に日に増えていったのです。一番人気は『となりのトトロ』のグッズですから、「トトロ、ありがとう」と言うしかない。

 しかもトトロのグッズは、最初から商品化を意図したものではなく、公開して数年した後に、玩具メーカーの熱意におされて作ったものです。それが救ってくれた。

 もう、これは計算じゃないです。運がよかった。そういうことが世の中には起こるのです。

鈴木敏夫さん ©石川啓次/文藝春秋

「運を呼び込む努力」をする

大泉 「運がよかった」とおっしゃいますけど、その運をたぐりよせるような手をうっているのではありませんか。

鈴木 それはありますね。

大泉 プロデューサーの最も重要な仕事のひとつは人選だと思います。ジブリ美術館の初代館長は宮崎駿さんの長男である吾朗さんです。この人選が運を呼び込む一手なのですか。

鈴木 これは私のひらめきです。計画の段階で、「運営は誰がするのですか」と宮崎に聞いたら、「鈴木さんがやればいいじゃない」という。さすがに映画のプロデューサーと両方はできませんから、宮崎が納得するような運営者を連れてくる必要がありました。

 そこで私は宮崎を説得するため、まず当て馬として2人の人物の名前を挙げました。誰が見ても向いてないから、宮崎はきっと反対する。案の定、「鈴木さん、まじめに考えてください」と怒られた。そこで3番目に出した名前が宮崎吾朗。

 その名前を口にしたら、宮崎の言葉が止まった。すこし間があって、「家族は巻き込みたくない。でも本人がやるというのなら仕方がない」という。このころ吾朗君は「オヤジとは違う道を歩みたい」と、自治体からの発注で公園などを設計する建築コンサルタントの仕事をしていました。そうした経験もありましたから、宮崎の理想を具体化するのは、吾朗君が最適だと当初から考えていました。

 本人に少し説明したら、5分で「OK」でした。就任後の吾朗君は、宮崎の理想を汲みながらも、ダメなところはダメと突っぱねて、この無茶な計画を実現してくれました。

 こういう時は、いろんな人を呼んでもしょうがない。中心が1人いればいいわけです。

大泉 そうですよね。

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