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どのように「将来の天皇」を教育するべきか――戦後の皇室の「子育て」方針とは?

NHKが元東宮侍従の日誌を発掘

2018/06/01
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戦前の皇室に「プライベートな家庭」という概念は通用しなかった

 このように、ヴァイニングによる教育の内容は、戦前のそれとは異なっており、明仁皇太子の人格形成に大きく影響を与えた。ところで、戦前の皇族はどのように育てられたのだろうか。昭和天皇・香淳皇后は、明仁皇太子が生まれたとき、彼を自らの手元に置き、家庭の中で育てようとした。しかし、木戸幸一(きど・こういち)内大臣秘書官が元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)に対して「赤坂離宮にて御生活のこと等を決定したる」(『木戸幸一日記』1934年10月31日条)と述べ、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣も湯浅倉平(ゆあさ・くらへい)宮内大臣と「可成早く満三ヶ年に御達し前に御別居被遊、御就学の関係を慮ばかり赤坂離宮附近に別殿御設備相成、御居住御願ひする事」(『牧野伸顕日記』1935年3月30日条)を合意したように、皇太子を次の天皇として「公」に育てなければならないという声は宮中では大きかった。

1956年夏、軽井沢での明仁皇太子と清宮さま(当時)。ご兄妹は別々に育てられた ©文藝春秋

 ここではプライベートな家庭という概念は通用しなかったのである。天皇皇后の意向はかき消され、1937年3月、赤坂に東宮仮御所が完成し、明仁皇太子は両親から離れてそこへ移り、別居生活を送りながら教育されていく。皇太子にとって、このように両親から離れていた経験が家庭生活を渇望させることになる。ヴァイニングの教育も、こうした皇太子の土壌に、種をまいたのであろう。

美智子さまによる「子どもの個性を見、それを重視した育児・教育」

 そして1959年4月、明仁皇太子は正田美智子と結婚する。翌年には徳仁親王が誕生、皇太子夫妻は自らと一緒に生活することを希望し、自ら育てていく。美智子妃はその育児方針について、次のように述べている。

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1959年4月、ご結婚の報告のため伊勢神宮を参拝された皇太子ご夫妻(当時) ©文藝春秋

「子供を育てるのは人間の心が中心になるので、何よりもまず本人の幸せを望みたい。一番大切なのは、両親が子供の個性や発達の型をみきわめて、深い愛情と忍耐で子供の心を大事に育てることだと思います」(1960年9月19日記者会見)。

 このように、美智子妃は子どもの個性を見、それを重視した育児・教育を心がけていた。それまでのように両親から切り離された空間で育てられるのとは一線を画し、極めて近い場で両親と子どもがいるからこそ成り立つ方針であったと言える。だからこそ、外遊などで長期に離れる際、周囲に徳仁親王のしつけに関するルールを提示して、後にこれが「ナルちゃん憲法」と呼ばれ、話題となった(例えば、『読売新聞』1994年6月10日、編集手帳)。こうした美智子妃の方針は、専業主婦が子育てを行っていく高度経済成長期の社会状況とも非常に親和的であった。

皇太子ご夫妻と浩宮さま(当時) ©松野武義