あと1年で終わりを迎える「平成」。天皇皇后両陛下が築きあげられた「平成流」も、はじめから国民の支持を集めていたわけではありませんでした。3人の識者が、平成皇室の30年間と、皇太子さまと雅子さまがどのような道を歩まれるのか、次代の新天皇皇后像について、とことん語ります(前編も公開中です)。

2005年10月、御所・御進講室での天皇皇后両陛下と、ご結婚を目前に控えられた紀宮さま(当時) 宮内庁提供

「皇太子への憂鬱」

河西秀哉(神戸女学院大准教授。象徴天皇制を研究) 今では「平成流」と広く呼ばれるようになった天皇皇后の在りようは、多くの国民から支持を集めていますが、最初はあんまりうまくいっていなかったんです。美智子皇后がメディアからバッシングを受けたことで起きた「美智子皇后失声症」(1993年)を、私は大きな事件だと思っています。

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「昭和天皇の時代はよかった」と懐古する人たち、とりわけ保守的な立場の人からの批判が、明仁天皇だけでなく、女性という、より弱い立場の美智子皇后に向いた点が重要です。バッシングについて「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。(中略)しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」(1993年10月20日、誕生日に際して)と文書で述べたあとに美智子皇后が倒れると、世論は擁護ムードに傾きました。

河西秀哉さん

S記者(皇室取材を担当して10年以上のベテラン) 天皇陛下の皇太子時代から即位された当初にかけて、国民はお二人について、どういう受け止めをしていたんでしょうか?

河西 昭和の時代から、たとえばジャーナリストの児玉隆也氏は「皇太子への憂鬱」(「現代」1973年9月号、のちに『この三十年の日本人』新潮文庫、1983年に収録)の中で、「皇太子に魅力がない」という意見を紹介し、皇太子は「“妻の持参金”で食べている。だが、その“貯金”はもうなくなりかけていることに、周辺は気づいていない」と批判しています。1989年に明仁天皇が即位した当時は、「開かれた皇室」と言って歓迎されましたが、やはり批判的な意見を持っている人もまだまだ多かったんです。

1971年、東宮御所の砂場でお過ごしになる皇太子ご一家(当時) 宮内庁提供

――皇族はストレートなご発信ができないため、特に女性皇族にとって「ファッション」は重要な要素といえそうですね。

河西 そうですね。美智子皇后が公務で身に着けている帽子から思想を読み取ることができる、という研究もあります。

S記者 美智子さまはその時々によって、お帽子のデザインについてもご希望をおっしゃると聞いたことがあります。

皇室担当記者のSさん

河西 服や帽子に、訪問国の国の色やゆかりのある花を取り入れるなど、細かい配慮がありますよね。平成になって、美智子皇后という非常にカリスマ性の高い皇后が現れたことで、女性らしさの中にも高度なセンスを兼ね備えた「発信」が増えたといえるのではないでしょうか。 

 しかし、美智子皇后はあくまでも自分が明仁天皇から支えられているように振る舞い、必ず明仁天皇を立てていますよね。並び立って歩くときも美智子皇后が半歩下がって、明仁天皇の右腕を持って歩きます。少し演出のように見えなくもないのですが、これこそが平成皇室の在り方かなというふうに思いますね。